中里稲荷神社。当地を開拓した九軒(九人組)が鎮守として奉斎
中里稲荷神社の概要
中里稲荷神社は、さいたま市中央区中里にある神社です。中里稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、当地を開拓した九軒(九人組)が鎮守として祀り、村の鎮守となったといいます。

社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市中央区中里4-17 |
祭日 | - |
備考 | - |
中里稲荷神社の由緒
中里稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、当地を開拓した九軒(九人組)が鎮守として祀り、村の鎮守となったといいます。
新編武蔵風土記稿による中里稲荷神社の由緒
(中里村)
稲荷社
村の鎮守なり、村民の持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による中里稲荷神社の由緒
稲荷神社(与野市新中里)
中里は、JR京浜東北線の与野駅から近く、地内の中央を国道一七号が通る交通至便な所にある。そのため、太平洋戦争後は住宅地として開発が進み、昭和二十六年から二十七年にかけては与野中里県営住宅、同四十四年には与野中里公営住宅、同四十五年には与野中里第二・第三公営住宅と相次いで住宅団地が出来、これに並行して一戸建ての住宅やアパートなども地内に続々と増えてきた。
しかし、戦前の中里は、米麦や芋類の栽培を中心としたのどかな農業地域で、隣接する下落合と共に、寺尾正二家・寺尾忠晴家・寺尾五郎吉家・横田源一家・町田和正家・三枝貞計家・吉田忠雄家・吉田貞市家・関野茂正家の九軒が開いた所であるといわれてきた。この九軒は、地元では 「九人組」と呼ばれ、当社は、元来はそのうちの町田家の持ちであったが、古くから「九人組」 の鎮守として祀られてきた。『風土記稿』中里村の項にある「稲荷社、村の鎮守なり、村民の持なり」 の記事は、そうした状況を示すものである。
昭和九年、国道一七号の敷設工事に伴い、当社境内の一部がその用地となり、これを機に町田家では社殿及び境内地を大字に寄附し、以後は「村持ち」 の神社として「九人組」 の人々が管理を続けてきた。また、昭和四年に町田家が建設した茅葺きの社殿は、戦後屋根が傷んできたため、同四十八年に寺尾正二家が私費で社殿を再建した。(「埼玉の神社」より)
中里稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)