下落合氷川神社。源頼義・義家父子が笠間氷川大明神を号して創祀
下落合氷川神社の概要
下落合氷川神社は、さいたま市中央区下落合にある神社です。下落合氷川神社は、源頼義・義家父子が奥州征伐の帰途、戦勝御礼に笠間氷川大明神を号して創祀したと伝えられます。江戸期には、下落合村の鎮守として笠間明神とも氷川明神とも称され、明治6年村社に列格したといいます。

社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡社、荒神社 |
住所 | さいたま市中央区下落合5-4 |
祭日 | - |
備考 | - |
下落合氷川神社の由緒
下落合氷川神社は、源頼義・義家父子が奥州征伐の帰途、戦勝御礼に笠間氷川大明神を号して創祀したと伝えられます。江戸期には、下落合村の鎮守として笠間明神とも氷川明神とも称され、明治6年村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による下落合氷川神社の由緒
(下落合村)
笠間明神社
村の鎮守なり、村の持、下同。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下落合氷川神社の由緒
氷川神社(与野市下落合)
鎮座地は、下落合の中でも「宮の台」と呼ばれる一番の高台にあり、西方の低地にはかつて「鴻沼」と呼ばれていた沼地が広がっていた。
社伝によると、陸奥の安倍一族を鎮圧するために陸奥守に任じられた源頼義は、子の義家と赴任の途中、当社に戦勝を祈り、この地で徴集した農兵が当社境内の石の笠を付けて合戦に活躍して勝利を得たので、義家はその報賽に大祭を行い、笠間氷川大明神と名付けたという。
この伝承が起こった背景としては、当社の西方七〇〇メートルほどの所を羽倉道と呼ばれる奥州脇道(現本町通り)が走っていたことや、当社の南東一〇〇メートルほどの所に源頼朝の臣安達藤九郎盛長が居住したとされる「落合陣屋」があったことが挙げられよう。
当社は元禄七年(一六九四)の「与野領落合村絵図」(辻村タカ家文書)に「氷川明神」と見え、化政期(一八〇四-三〇)の『風土記稿』には「笠間明神社 村の鎮守なり、村の持」とあり、更に文政六年(一八二三)の社号額には「笠間氷川大明神」と刻み、社号は一定しない。また、明和七年(一七七〇)の社殿再建の棟札には「名主辻村久左衛門・同近藤勝右門・同近藤儀右門・惣氏子中」のほかに、「遷□□東光寺法印堅慶」と見え、東光寺が別当であったと推測される。同寺は明治四年に廃寺となり、当社の南方一〇〇メートルほどのその跡地には阿弥陀堂が残されている。当社は明治六年に村社になった。(「埼玉の神社」より)
下落合氷川神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)