岩槻愛宕神社。火防の神として土塁(岩槻城大構)の上に奉斎
岩槻愛宕神社の概要
岩槻愛宕神社は、さいたま市岩槻区本町にある神社です。岩槻愛宕神社の創建年代等は不詳ながら、天正年間(1580代頃)に築かれた土塁(岩槻城大構)の上に鎮座、火防の神として愛宕神を祀り、寛永年間に創建した三光寺の境内社だったといいます。明治維新後に三光寺は廃寺となり、無格社に列していたといいます。
社号 | 愛宕神社 |
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祭神 | 迦具土命 |
相殿 | - |
境内社 | 松尾神社、稲荷神社、天神社 |
住所 | さいたま市岩槻区本町3-21-25 |
祭日 | - |
備考 | - |
岩槻愛宕神社の由緒
岩槻愛宕神社の創建年代等は不詳ながら、天正年間(1580代頃)に築かれた土塁(岩槻城大構)の上に鎮座、火防の神として愛宕神を祀り、寛永年間に創建した三光寺の境内社だったといいます。明治維新後に三光寺は廃寺となり、無格社に列していたといいます。
新編武蔵風土記稿による岩槻愛宕神社の由緒
(久保宿町)三光寺
天台宗、東叡山の末、愛宕山満蔵院と號す、本尊地蔵、開山元立寛永年中起立とのみ傳へり。
愛宕社。稲荷社。松尾社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による岩槻愛宕神社の由緒
愛宕神社の祭神は迦具土命であり、境内には松尾神社(祭神 大山咋命・伊弉諾命・伊弉冉命・徳川家康)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)がある。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育の神として知られ、近年は、進学・就職の神として信仰を集めている。
神社の創建は明らかではないが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されている。いい伝えによると、長禄元年(一四五七)に太田資清(一説には道灌)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った。するとその傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えた。これは火防の神(愛宕大神)であるので土塁上に移し祀った。その日が現在の七月二十四日であるので、今でも祭礼日として祭典を行っている。(埼玉県・岩槻市掲示より)
「埼玉の神社」による岩槻愛宕神社の由緒
愛宕神社<岩槻市本町三-二一-二五(岩槻字府内)>
江戸期の「岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図」を見ると、当社は城の本丸の西南西に当たる城郭の「大構」(土塁)の上に鎮座し、その傍らには三光寺があった。社伝によると、長禄元年(一四五七)に太田氏が岩槻城を築くに当たり、外堀と土塁を造った。その際に小さな祠を発見し、風雨に晒された小板にかすかに迦具土命という字が見えたので、火防の神として崇め、土塁上に祀ったのに始まるという。
『風土記稿』久保宿町の項に「三光寺 天台宗、東叡山の末、愛宕山満蔵院と号す、本尊地蔵、開山元立寛永年中(一六二四-四四)起立とのみ伝へり、愛宕社 稲荷社 松尾社」とあり、当社が三光寺の境内に祀られていたことがわかる。
本殿には、甲冑を着け、右手に矢、左手に弓を持ち、軍馬にまたがる像(全高三六・五センチメートル)と一対の随身像が奉安されている。愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵であることから、この像は勝軍地蔵像とすべきであるが、その持物や台座裏の墨書を見ると、八幡大明神像ともみなされる。台座の裏には「相州鎌倉住佛師水橋作 此尊像佐々木四郎高綱守本尊也」と記される。この佐々木四郎高綱とは鎌倉初期の武将で、治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵に従っている。
神仏分離を経て、当社は無格社とされた。また、三光寺は廃寺となりその跡に矢部家が居住し当社の神職として四代にわたり奉仕する。(「埼玉の神社」より)
岩槻愛宕神社所蔵の文化財
- 岩槻城大構
岩槻城大構
戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土塁)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約八kmに及んだという。
この大構は、天正年間(一五八〇年代頃)、小田原の後北條氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。(境内掲示より)
岩槻愛宕神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)