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武蔵第六天神社。さいたま市岩槻区大戸の神社

武蔵第六天神社の概要

武蔵第六天神社は、さいたま市岩槻区大戸にある神社です。武蔵第六天神社は、天明2年(1782)に創建、疫病除けや病気平癒にご利益があるとのことで遠近より参詣者が絶えず、「大戸の第六天様」と称されていたといいます。明治維新後は無格社とされたものの、明治40年村社香取神社・無格社鳴雷社・無格社厳島神社・無格社熊野神社の四社を当社に合祀、村社となっています。

武蔵第六天神社
武蔵第六天神社の概要
社号 第六天神社
祭神 面足尊、吾屋惶根尊
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市岩槻区大戸1752
祭日 -
備考 -



武蔵第六天神社の由緒

武蔵第六天神社は、天明2年(1782)に創建、疫病除けや病気平癒にご利益があるとのことで遠近より参詣者が絶えず、「大戸の第六天様」と称されていたといいます。明治維新後は無格社とされたものの、明治40年村社香取神社・無格社鳴雷社・無格社厳島神社・無格社熊野神社の四社を当社に合祀、村社となっています。

新編武蔵風土記稿による武蔵第六天神社の由緒

(大戸村)
香取社
村の鎮守
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雷電社
熊野社
以上三社、寶蔵院持、
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第六天社
大聖院持
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久伊豆社
村持、下同、
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天神社(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による武蔵第六天神社の由緒

その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城の忌門寺として有名な華林山慈恩寺や日光廟に往来した諸人は日光街道を曲げて当社に奉拝したといわれる。当社は武蔵国第六天の一として、古来より火防・盗難・疫病を除去し、以って家内安全・五穀豊穣・商売繁昌の霊験著しく、江戸界隈の人等や武蔵国の諸所から崇敬社が加わり、今日では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し大神の御加護を蒙り、自家の安泰と幸福を祈り奉らんと、御眷属である天狗の神額を授かる参拝者で賑わい、一陽来福を祈る個人参拝者は四季絶えるなく綿々と続き、これ偏に広大無辺、神徳無量なる御神徳と御威光の賜と存じております。
当社の御創建は、第一一九代光格天皇の御代、天明二年六月十五日の御鎮祭と伝えられており、明治四十年六月二十八日、村社香取神社・無格社鳴雷神社・同厳島神社・同熊野神社を合祀し、現在に至っております。
尚、境内には樹齢数百年と言われる藤の花をはじめ、躑躅・牡丹・西洋藤・紫陽花が咲き乱れ、岸頭には桜並木が続き、門前には有名な川魚料理家が立ち並ぶ埼玉の自然百選に認定された観光名所となっております。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による武蔵第六天神社の由緒

第六天神社<岩槻市大戸一七五二(大戸字際)>
熊谷市久下より大宮台地の東北の辺縁部を南東に流れ、吉川市の西部で中川に合流する元荒川は、寛永六年(一六二九)に関東郡代伊那半十郎忠治によって大規模な河川改修が行われるまでは荒川の本流であり、かつては、灌漑用水や水運の航路として重要な役割を担っていた。蓮田市から岩槻市、越谷市へと至るその流域は、急激な都市化によって環境破壊が懸念されている地域であるが、元荒川の両岸は古き良き時代の景観が比較的よく残っており、休日などは散策や釣りを楽しむ人々の憩いの場となっている。当社の境内は、この元荒川の堤防上にあり、社のすぐ裏手には風光明媚な風景が広がる。こうした景観と、当社の創建とは、深いかかわりがある。
氏子の間では、当社の始まりについて、次のような話が伝えられている。一つは、その昔、ぴかぴかと光る御神体が元荒川の上流から流れて来たので、村人がそれを川から拾い上げて祀ったところ、この地にあった病患いがなくなった。それで、この神様はあらたかな神様だという評判が立って近隣に知られるようになったという。
もう一つは次のような話である。その昔、大戸村に堀切力弥という侠客がおり、病人の面倒をよく見ていた。ある時、元荒川の河畔で雑草を刈っていたところ、鎌の先に当たるものがあったので、草をかき分けて掘り出してみたところ金色の立派な御神体を納めた木の祠で、力弥はこれを不思議に思って自宅に持ち帰り、大切に祀っていたところ、夢枕に第六天神を名乗る白髪の老翁が現れて、秋になるとこの地に悪疫が流行するが自分を奉拝すれば必ず免れると告げた。力弥がこの言葉を信じ、信仰に精出していたところ、お告げの通り疫病が大流行し、命を落とすものも多かったが、力弥の一家は無事であった。このことを知った近郷の人々も、力弥の第六天神を厚く信仰するようになり、やがて祠の出土した元荒川堤の地に小さな祠を建立して、御神体を祀ったのが当社の始まりという。
こうした話が示すように、当社は疫病除けや病気平癒に多大なご利益があり、「大戸の第六天様」の通称で広く知られている。祭神は面足命と惶根命の二柱で、社記によれば創建は天明二年(一七八二)六月十五日のこととされている。更にその後、寛政二年(一七九〇)五月に社殿を増築したが、それが現在の社殿であるという。
江戸時代、大戸村の鎮守は香取社で、明治の初めに社格が制定された際も、香取社が村社となり、当社は無格社であった。ところが、政府の合祀政策に従って、明治四十年六月に村社香取神社・無格社鳴雷社・無格社厳島神社・無格社熊野神社の四社が当社に合祀されたことにより、当社は村社に列した。こうした合祀の経緯は、当社の繁栄が旧来の村鎮守をはるかに凌ぐものであったことを物語っている(「埼玉の神社」より)


武蔵第六天神社の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
  • 「さいたま市史料叢書6」