加倉久伊豆神社。当地を開拓した斎藤家の久伊豆大明神を村鎮守として奉斎
加倉久伊豆神社の概要
加倉久伊豆神社は、さいたま市岩槻区加倉にある神社です。加倉久伊豆神社の創建年代は不詳ながら、天文年間(1532-1533)に斎藤勘解由之盛が当地を開拓、元亀年間(1570-1573)に一村として成立した際に、斎藤家で祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守として祀るようになったといいます。明治5年村社に列格しました。
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市岩槻区加倉4-19-37 |
祭日 | - |
備考 | - |
加倉久伊豆神社の由緒
加倉久伊豆神社の創建年代は不詳ながら、天文年間(1532-1533)に斎藤勘解由之盛が当地を開拓、元亀年間(1570-1573)に一村として成立した際に、斎藤家で祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守として祀るようになったといいます。明治5年村社に列格しました。
新編武蔵風土記稿による加倉久伊豆神社の由緒
(加倉村)久伊豆社
村の鎮守なり、祭神は大己貴命にして、本地佛十一面観音を安ず。
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龍神社
水神社
稲荷社
以上三社大善院の持。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による加倉久伊豆神社の由緒
久伊豆神社の御祭神は、国土開発・生成化育・子孫繁栄を掌る大己貴命(大国主命)です。
天文年間(一、五三二~一、五三三)頃勘解田盛之という人が当地に来て田圃を拓き農人となりこの地に留まるようになったのがこの村の祖といわれています。元亀年間(一、五七〇~一、五七三)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以て加倉村と改めました。その頃農人が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守「久伊豆神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました。
明治五年に村社となり、翌明治六年十一月十一日本殿の落成を見、同二十九年十一月に拝殿が再建されました。正面の扁額に久伊豆神社・稲荷社・宗像社・籠神社・水神社と掲げられており、いくつもの神様が祀られていることが分かり、それぞれの神様がこの加倉地区・加倉の人々をお守りくださっております。久伊豆神社は加倉の鎮守様(氏神様)であります。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による加倉久伊豆神社の由緒
久伊豆神社<岩槻市加倉一三九二(加倉字中島)>
氏子の鈴木征夫家が所蔵する古記録の写しには、加倉の開発と当社の由緒が記されている。これによれば、加倉は、古くは箕輪之郷向原と称し、天文年間(一五三二-五五)に斎藤勘解由之盛という者が土着して開発し、元亀年間(一五七〇-七三)に一村になったもので、当社はこの草分けの斎藤家の氏神として、また加倉村の鎮守として、馬坂と称する高台に勧請されたという。
しかし馬坂の地が太田氏と相州北条氏との戦場となったため、境内は荒廃し、社殿も破壊されてしまったことから、元亀年間にその神霊を中島の地に遷して祀った。岩槻落城の後も、心霊は旧地に帰ることを好まなかったため、その後も中島に祀り続けられ、大善院の祈願所となってきたという。ちなみに、この文書に当社創建の地として伝えられる馬坂は、現在の社地の三〇〇メートルほど西方に当たる。
一方、『風土記稿』加倉村の項では、当社は「久伊豆社 村の鎮守なり、祭神は大巳貴命にして、本地仏十一面観音を安ず」と記されている。この本地仏の十一面観音は、神仏分離の際に失われたものらしく、現在は神牌だけで、それを納めていたと思われる筥には「正一位久伊豆大明神 文政九年(一八二六)八月神祇伯雅寿王勤遷之」の墨書がある。また、別当であった本山派修験の大善院も神仏分離によって廃寺になり、わずかに法印墓地が残っているだけである。(「埼玉の神社」より)
加倉久伊豆神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)