関白神社。船越明神社として創建、閑白神社
関白神社の概要
関白神社は、さいたま市岩槻区平林寺にある神社です。関白神社の創建年代等は不肖ながら、戦国時代に杉戸の武将が当地に逃れてきた際、武将を運んだ船頭が追手に殺されてしまい、武将が船頭を悼んで船越明神社として創祀したと伝えられます。江戸期には平林寺村の鎮守社として祀られていましたが、江戸末期に関白神社と改称、一時閑白神社と称していたものの、関白神社に旧称に復したといいます。
社号 | 関白神社 |
---|---|
祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市岩槻区平林寺925 |
祭日 | - |
備考 | - |
関白神社の由緒
関白神社の創建年代等は不肖ながら、戦国時代に杉戸の武将が当地に逃れてきた際、武将を運んだ船頭が追手に殺されてしまい、武将が船頭を悼んで船越明神社として創祀したと伝えられます。江戸期には平林寺村の鎮守社として祀られていましたが、江戸末期に関白神社と改称、一時閑白神社と称していたものの、関白神社に旧称に復したといいます。
新編武蔵風土記稿による関白神社の由緒
(平林寺村)
船越明神社
村の鎮守なり、寶蔵寺持。
末社稲荷。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による関白神社の由緒
関白神社<岩槻市平林寺九二五(平林寺字東)>
昔、小田原の戦いがあった時に、岩槻城主は家来を引き連れて小田原へ出掛けて行った。しかし、戦いが長引き帰るに帰れなくなった。その留守中に古河公方に攻められて岩槻城が落城してしまった。その時、杉戸の武将が元荒川沿いに逃げてきた。たまたま渡し場に船頭がいたので船で渡してもらい、この地の平林寺に逃げ込み、僧侶の衣を着て坊主になり難を逃れた。一方、追手は船頭を疑い、武将を運んだかと詰問した。船頭は運んだことを否定したが、船に血痕があったために嘘がばれて追手に殺されてしまった。後に武将は自分のために殺された船頭のために碑を建てた。それが船越明神となり、後に関白神社となった。明治七年に氏子総代が神社の格式をみてもらうために奈良に赴いたところ、「関白」の字が良すぎるので「閑白」に改めるように指示された。そこで、しばらくの間は「閑白神社」と称していたが、いつの間にか「関白神社」に戻され、今に至っているという。幟に「従一位閑白太政大臣」と書かれているのは、その名残である。
また、別な口碑に「昔この辺りは海であり、村にはまだ神社がなかった。そこで、神様がほしいと村人が切望したところ、大水の時に御神体が流れ着いたので、それを祀り込んだのが当社の起こりである」という。
『風土記稿』には「船越明神社 村の鎮守なり、宝蔵寺持」とある。(「埼玉の神社」より)
関白神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)