村国久伊豆神社。さいたま市岩槻区村国の神社
村国久伊豆神社の概要
村国久伊豆神社は、さいたま市岩槻区村国にある神社です。村国久伊豆神社の創建年代等は不詳ながら、当地には野与党渋江氏の居館跡や鋳造遺跡があることから、古くから祀られてきたのではないかといいます。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治40年地内の八幡社・第六天社を境内へ遷座しています。
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 第六天神社、八幡神社、稲荷、天神 |
住所 | さいたま市岩槻区村国606 |
祭日 | 夏祭り7月10日、祭礼9月7日 |
備考 | - |
村国久伊豆神社の由緒
村国久伊豆神社の創建年代等は不詳ながら、当地には野与党渋江氏の居館跡や鋳造遺跡があることから、古くから祀られてきたのではないかといいます。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治40年地内の八幡社・第六天社を境内へ遷座しています。
新編武蔵風土記稿による村国久伊豆神社の由緒
(村國村)
久伊豆社
多寶院の持にて、村の鎮守とす、
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八幡社
是も同寺の持、下同じ、
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第六天社 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による村国久伊豆神社の由緒
久伊豆神社<岩槻市村国六〇六(村国字屋敷前)>
村国は、岩槻の城下町の東に位置し、中世には渋江郷に含まれていたと伝えられる。ここには、渋江鋳物師と呼ばれる鋳物師が集住し、その工房跡とされる中世末期から近世初頭にかけての鋳造遺跡(県指定旧跡)があるほか、野与党渋江氏の居館跡といわれる館跡(通称は城山)がある。この村国の鎮守として祀られてきたのが当社である。
残念ながら、当社の創建の時期は定かではないが、本殿の内陣に安置されている神璽筥には「正一位村国久伊豆大明神 天保四巳年(一八三三)二月氏子中」との墨書があり、この年に神祇伯家から極位を受けたことがわかる。また、『風土記稿』村国村の項には「久伊豆社 多宝院の持にて、村の鎮守とす」とあり、江戸時代には、真言宗の多宝院によって管理されていたことがわかる。多宝院は、当社の西三〇〇メートルほどの所にあったが、神仏分離の後は無住となり、堂宇は地区の集会所として利用されていた。しかし老朽化が激しくなったため、昭和三十年ごろ取り壊され、その跡地に村国公民館が建設された。
なお、『風土記稿』村国村の項には、当社のほかに八幡社と第六天社の二社を、当社と同じく多宝院持ちの神社として載せている。八幡社は、字屋敷、第六天社は字江入穴にあったが、いずれも小規模な無格社であったため、明治四十年に村社である当社の境内に移転された。(「埼玉の神社」より)
村国久伊豆神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)