野孫神社。さいたま市岩槻区野孫の神社

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野孫神社。野島の稲荷社に孫十郎の久伊豆社を合祀

野孫神社の概要

野孫神社は、さいたま市岩槻区野孫にある神社です。野孫神社の創建年代等は不詳ながら、稲荷社と称して、野島村(野島方村)の鎮守として祀られていたといいます。明治41年孫十郎の久伊豆社を合祀して野孫神社と改称、村社に列格しています。

野孫神社
野孫神社の概要
社号 野孫神社
祭神 倉稲魂命、大己貴命
相殿 -
境内社 天神社
住所 さいたま市岩槻区野孫153
祭日 祭礼5月7日
備考 -



野孫神社の由緒

野孫神社の創建年代等は不詳ながら、稲荷社と称して、野島村(野島方村)の鎮守として祀られていたといいます。明治41年孫十郎の久伊豆社を合祀して野孫神社と改称、村社に列格しています。

新編武蔵風土記稿による野孫神社の由緒

(野島村)
稲荷社三宇
共に光榮寺持、其内一は村の鎮守なり、
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天神社
持同じ、
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(孫十郎村)
久伊豆社
村民持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による野孫神社の由緒

野孫神社<岩槻市野孫六二三(野島方字下)>
野孫は、江戸時代における野島方村(単に野島村とも称した)と孫十郎村が昭和十八年に合併してできた当時の新和村の大字名である。当社は、野島方の鎮守であった無格社の稲荷神社に、孫十郎の鎮守であった無格社の久伊豆神社及び野島方字谷中に鎮座していた村社の稲荷神社を合祀して誕生した神社である。当社の通称を「稲荷様」というのは、この稲荷神社当時の通称が継承されてきたものである。
この合祀は、明治四十一年四月十一日に実施されたもので、当時既に「野孫」の名を冠しているのは、野島方村と孫十郎村がかなり早い時期から一体と考えられていたことを示すものであろう。ちなみに、孫十郎にあった久伊豆神社の跡地は現在田になっている。
『風土記稿』野島村の項には「稲荷社三宇 共に光栄寺持、其内一は村の鎮守なり」とある。光栄寺は、天台宗の寺院であったが、この寺は明治の初期に廃寺になったものらしく、現在では赤沼安男家(屋号は「寺前」)の北側に寺があったという話を伝えるだけである。当社の内陣には、天明元年(一七八一)に京都の伏見稲荷から神璽を勧請した際の安鎮状が神璽筥と共に安置されているので、このころ村の鎮守にふさわしくと稲荷の総本宮から神璽を受けたことがわかる。一方、合祀された久伊豆神社は、孫十郎村の項に「久伊豆社 村民持」とあるもので、規模も小さい神社であったらしい。(「埼玉の神社」より)


野孫神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)