高曽根稲荷神社。さいたま市岩槻区高曽根の神社
高曽根稲荷神社の概要
高曽根稲荷神社は、さいたま市岩槻区高曽根にある神社です。高曽根稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、元禄3年(1690)に開創した蓮花院の境内社として祀られ、高曾根村の鎮守社だったといいます。明治維新後蓮花院は廃寺となり、明治6年村社に列格、大正3年には神饌幣帛料供進神社に指定されています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 稲荷大明神 |
相殿 | - |
境内社 | 愛宕社、宗像社、天神社、八雲社、白旗大明神 |
住所 | さいたま市岩槻区高曽根942 |
祭日 | - |
備考 | - |
高曽根稲荷神社の由緒
高曽根稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、元禄3年(1690)に開創した蓮花院の境内社として祀られ、高曾根村の鎮守社だったといいます。明治維新後蓮花院は廃寺となり、明治6年村社に列格、大正3年には神饌幣帛料供進神社に指定されています。
新編武蔵風土記稿による高曽根稲荷神社の由緒
(高曾根村)
蓮花院
新義眞言宗、末田村金剛院門徒、大悲山と號す、元禄三年の草創にて開山寛秀寂年詳ならず、本尊は勢至を安ぜり、
稲荷社。村の鎮守也(新編武蔵風土記稿より)
境内石碑による高曽根稲荷神社の由緒
稲荷神社新築記念碑
当社の創建は詳らかでないが、安政六年(西暦一八五九年)に再建されている。明治六年四月村社に列せられ、大正三年四月三十日神饌幣帛料供進神社に指定され、当社の記録に明和七年(西暦一七七〇年)六月京都伏見稲荷大社より御分霊を勧遷と記されている。
又、宝暦辛乙年(西暦一七五一年)二月に疫病退散、息災延命を願い氏子一同神前に獅子一頭を奉納され、爾来綿々と獅子舞の巡幸が行われてきた。
平成十六年六月十五日未明、先人より守り継がれた御社殿を不審火により全焼失するも、高曽根自治会・氏子一同奉賛の誠を捧げ、本殿・幣殿拝殿・手水舎を復興し、更に参道整備・幟新調を以って郷内の安泰と氏子の繁栄を祈念するものである。(境内石碑より)
「埼玉の神社」による高曽根稲荷神社の由緒
稲荷神社<岩槻市高曾根九四二(高曾根字中曾根)>
当地は、元荒川右岸の沖積平野に位置し、集落は自然堤防上に形成されている。村の開発は明らかでないが、近世を通して高曾根村と称し、延宝八年(一六八〇)の「岩付領内村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)には家数五三、人数三〇三とその村の規模が記されている。
当社は氏子集落のほぼ中央に鎮座する。創建にかかわる伝承はないが、『風土記稿』高曾根村の項には「蓮花院 新義真言宗、末田村金剛院門徒、大悲山と号す、元禄三年(一六九〇)の草創にて開山寛秀寂年詳ならず、本尊は勢至を安ぜり、稲荷社 村内の鎮守也」と載る。その記載の形式から、当社は蓮花院の境内社として祀られていたことがわかり、当社は同寺の僧侶の手により創建され、同寺と共に村人の信仰を集めてきたのであろう。
しかし、明治政府の神仏分離政策により蓮花院が廃寺となり、当社は明治六年に村社となった。当社が蓮花院の境内社であったことは時代とともに忘れ去られ、現在では蓮花院の痕跡も残っていない。
なお、現在の一間社流造りの本殿は、安政六年(一八五九)の再建と伝わる。内陣には、右手に鎌を持ち左肩に稲穂を担う稲荷大明神立像と狐にまたがる荼枳尼天像を奉安する。荼枳尼天は本来インドにおいて大黒天に仕える夜叉鬼であったが、日本伝来後に福神化して稲荷神と習合されたものである。(「埼玉の神社」より)
高曽根稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)