雷電神社。雷電社に氷川社を合祀した二間社
雷電神社の概要
雷電神社は、さいたま市北区今羽にある神社です。雷電神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には当社をはじめ村内の四社を管理していた修験三明院が戦国期に土着と伝わることから、当社の創建も戦国期ではないかといいます。明治6年村社に列格、明治19年氷川社を合祀しています。
社号 | 雷電神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 諏訪社、琴平社 |
住所 | さいたま市北区今羽154 |
祭日 | - |
備考 | 旧村社 |
雷電神社の由緒
雷電神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には当社をはじめ村内の四社を管理していた修験三明院が戦国期に土着と伝わることから、当社の創建も戦国期ではないかといいます。明治6年村社に列格、明治19年氷川社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による雷電神社の由緒
(今羽村)
氷川社
村内の鎮守なり。
熊野社
雷電社
春日社
以上四社は、村内修験三明院持。 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による雷電神社の由緒
雷電神社<大宮市今羽町五七三(今羽字中原)>
当地は、見沼跡を流れる芝川を望む台地の突端部に位置する。天水場であって用水に恵まれず、逆に降雨の際には、上流の村から悪水が流れ込む水旱両難の地であったため、江戸期に入っても、耕作には困難を極めたという。
『風土記稿』今羽村の項には「氷川社 村の鎮守なり、熊野社 雷電社 春日社 以上四社は、村内修験三明院持」と載り、氷川社の方が鎮守であったことがわかる。氷川社については、本山派修験であった三明院が戦国期に土着したと伝わることから、やはりそのころに、武蔵国一宮として名高い氷川神社を勧請し、村民が治水の神として崇敬したのに始まるのであろう。
しかし、なおも水旱の難に苦しんだ村民は、天候の順次を願い、水神である当社を重ねて祀ったのではなかろうか。
明治六年に、当社の方が村社となるが、これは村里に近く参拝にも至便であり、また古くから村民の切実な信仰を集めていたことが理由であったという。やがて明治十九年、当社の二〇〇メートル程奥の山林の中に鎮座していた氷川社を合祀した。したがって、現在本殿は二間社であり、氏子らも、当社を雷電様とも氷川様とも呼んでいる。
三明院は維新後復飾して高橋姓を名乗るが、明治十年の西南戦争に従軍し、戦死したため裔が絶えてしまった。(「埼玉の神社」より)
雷電神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)