附島氷川女体社。氷川女体神社の社領だった地
附島氷川女体社の概要
附島氷川女体社は、さいたま市緑区大間木にある神社です。附島氷川女体社の創建年代は不詳ですが、見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、寛永6年(1629)以降附島村内に与えられたことから、それ以降に社領の鎮守社として祀られたのではないかといいます。
社号 | 氷川女体社 |
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祭神 | 奇稲田姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 大明神・稲荷 |
住所 | さいたま市緑区大間木1522 |
祭日 | 村祈祷7月16日、禦5月15日 |
備考 | - |
附島氷川女体社の由緒
附島氷川女体社の創建年代は不詳ですが、見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、寛永6年(1629)以降附島村内に与えられたことから、それ以降に社領の鎮守社として祀られたのではないかといいます。
新編武蔵風土記稿による附島氷川女体社の由緒
(附島村)(大間木村)女體明神社
村民の持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による附島氷川女体社の由緒
氷川女体社(大間木1522)
かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現浦和市宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(一六二九)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四~七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。(「埼玉の神社」より)
附島氷川女体社所蔵の文化財
- 附島氷川女体神社本殿一棟(市指定有形文化財)
附島氷川女体社本殿一棟
一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が六九・〇cm、奥行六一・〇cm、向拝の出が五一・〇cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首です。向拝柱は角は白の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁で結ばれていますが、左右の向拝柱を結ぶ虹梁は省略されています。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「見世棚造り」となっています。木階はその前面につきます。軒は二重繋垂木、屋根はこけら葺きとなっています。
この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。(宗教法人氷川女体社・浦和市教育委員会掲示より)
附島氷川女体社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)