内谷氷川社。佐々目郷の中心の中心地に祀られた社
内谷氷川社の概要
内谷氷川社は、さいたま市南区内谷にある神社です内谷氷川社の創建年代は不詳ながら、境内の「宝しょう池」から、平安時代ころのものと見られる須恵器、土師器や布目瓦などが出土しており、平安時代ころから水神を祭祀していたのではないかといいます。鎌倉時代後期には、当地佐々目郷は鶴岡八幡宮領に属し、鶴岡八幡宮所蔵の文書にも「氷河宮」として記載され、佐々目郷の中心の中心地だったといいます。江戸期には、内谷・曲本・沼影・松本新田四か村の総鎮守として祀られ、明治6年村社に列格、字田畑前の稲荷社を合祀しています。
社号 | 氷川社 |
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祭神 | 素戔嗚尊、寄稲田姫命 |
相殿 | 保食命 |
境内社 | 弁天社、八雲社、天神・玉吉・貴船・機神・安産社 |
住所 | さいたま市南区内谷2-2-17 |
祭日 | 例大祭10月7日 |
備考 | 旧村社 |
内谷氷川社の由緒
内谷氷川社の創建年代は不詳ながら、境内の「宝しょう池」から、平安時代ころのものと見られる須恵器、土師器や布目瓦などが出土しており、平安時代ころから水神を祭祀していたのではないかといいます。鎌倉時代後期には、当地佐々目郷は鶴岡八幡宮領に属し、鶴岡八幡宮所蔵の文書にも「氷河宮」として記載され、佐々目郷の中心の中心地だったといいます。江戸期には、内谷・曲本・沼影・松本新田四か村の総鎮守として祀られ、明治6年村社に列格、字田畑前の稲荷社を合祀しています。
境内掲示による内谷氷川社の由緒
氷川社御由緒
当社の社前に「宝しょう池」と呼ばれる神池があり、ここに湧き出る清水は、古来日照りの際にも涸れることがなかったといわれる。この池から平安-鎌倉期のものと推定される土師器・須恵器が発見されているほか、境内から布目瓦が出土しており、当社の創建が古代までさかのぼりうる可能性を示唆する。いずれにしても当社はこの一帯の耕地を潤す水源に水神として祀られたことは想像に難くない。
拝殿奥の覆屋には、桃山時代の建立とされる二社の同型同大の見世棚造りの本殿(県指定文化財)が並列し、それぞれ西宮・東宮と称して、西宮に男神(素戔嗚尊)、東宮に女神(稲田姫命)が祀られている。また二社に挟まれて中央には神輿を安置する。本社とされる一宮氷川社の古い祭祀形態と同様であるといわれている。
『風土記稿』に当社は、内谷・曲本・沼影・松本新田四か村の総鎮守で、本地十一面観音を置き、神主は吉田家配下土屋下野とある。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による内谷氷川社の由緒
(内谷村)氷川社
當村及び曲本・沼影・松本新田等四ヶ村の鎮守なり、本地佛十一面観音を置り、秘して見ることを許さず、神主を土屋下野と云、吉田家の配下。
末社。簸王子荒脛白髭合社、天神稲荷合社、辨天社。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による内谷氷川社の由緒
氷川社<浦和市内谷2-2-17(内谷字番匠目)>
当社の社前に「宝しょう池」と呼ばれる神池があり、ここに湧き出る清水は、古来日照りの際にも涸れることがなかったといわれる。この池から平安-鎌倉期のものと推定される土師器・須恵器が発見されているほか、境内から布目瓦が出土しており、当社の創建が古代までさかのぼりうる可能性を示唆する。いずれにしても当社はこの辺り一帯の耕地を潤す水源に水神として祀られたことは想像に難くない。
当地を含む現浦和市南西部から戸田市西部にまたがる地域は、中世の佐々目郷に属し、「鶴岡八幡宮寺供僧次第」によると、正応六年(一二九三)から四回に分けて鎌倉の八幡宮に寄進された。
『鶴岡事書日記』によれば、当郷の農民たちは鶴岡八幡宮に対して年貢減免を求める闘争を激しく展開している。応永元年(一三九四)十月二十二日、鶴岡八幡宮は当郷公文所に宛てて、今年は豊作であるにもかかわらず、農民たちが往古の例に背いて個別の検見を拒否しているため、年貢収納が減少していることを非難し、首謀者の名簿提出を命じている。翌二年七月十三日、鶴岡八幡宮は当郷政所に、悪党の追放と強訴を企てた百姓一五人の召喚を命じ、また、氷河宮の宮大夫(禰宜)に関する報告を求める指示を出している。これに見える「氷河宮」が当社と推定されている。恐らく、農民たちの強訴の企てと氷河宮の宮大夫のかかわりが問題とされたのであろう。更に、応永四年(一三九七)九月四日、鶴岡八幡宮は同宮の二五坊の供僧の一つである寂静坊の訴えを受けて、氷河宮の宮大夫の屋敷の事につき、子細を尋ね聞くため、当郷の一〇人の百姓を召し出すよう政所に命じている。ところが百姓たちは、この屋敷(畠)は往古から氷河宮の御神領でかつ祭料所であったことを主張し、この訴えを否定するのである。
中世において、当社は水源に坐す神として農民たちの生活と極めて密接に結び付いていたと考えられ、強訴などの際には拠点ともなっていたであろう。また、その宮大夫は地域の主導的立場にあったことが推測され、地域の人々と共に存在する神職のあるべき姿を彷彿とさせる。
当社の覆屋には、桃山時代の建立とされる二社の同型同大の見世棚造りの本殿(県指定文化財)が並列し、それぞれ西宮・東宮と称して、西宮に男体立像、東宮に女体立像を奉安する。また、二社に挟まれて中央には神輿を安置する。本社とされる一宮氷川社の古い祭祀形態と同様である。
『風土記稿』に当社は、内谷・曲本・沼影・松本新田四か村の総鎮守で、本地十一面観音を置き、神主は吉田家配下土屋下野とある。明治六年に村社となり、いつのころか字田畑前から稲荷社を合祀した。(「埼玉の神社」より)
内谷氷川社所蔵の文化財
- 内谷氷川神社本殿二棟(埼玉県指定有形文化財)
- 内谷氷川神社境内(浦和市指定史跡)
内谷氷川神社本殿二棟
浦和市南西部から戸田市にかけての地域は、鎌倉時代から徳川家康の江戸入国まで鎌倉の鶴岡八幡宮の領地で、佐々目郷とよばれていました。その佐々目郷の中心が、室町時代初期の記録である『鶴岡事書日記』に「氷河宮」として記載があるこの氷川神社であったと考えられています。
本殿は一間社流見世棚造りで、まったく同型同大の二棟が横に並んでいます。地覆上に建ち、身舎柱は円柱で、柱上は大斗肘木で桁を受けます。妻は豕扠首となっています。向拝柱は角柱大面取りで、柱上連三斗組、中備には鹿の彫刻の蟇股が入ります。屋根は二重板葺きです。なお、見世棚造りとは、身舎前面から向拝柱まで、腰長押の高さに板が張られている形式ですが、前面に木階が付いているのは市内にある同形式本殿の特徴でもあります。
平成三・四年度の解体修理では建立年代を示す資料は発見されませんでしたが、全体の造りや細部の意匠から桃山時代の建立であると推定され、市内でも最も古い神社建築のひとつです。さらに、祭神一柱につき一棟という古い形式を備えていることもあり、保存価値の高い建造物といえます。
なお、祭神である男神・女神像は室町時代の作とされる一木造りで、市指定有形文化財となっています。(氷川神社、埼玉県・浦和市教育委員会掲示より)
内谷氷川神社境内
浦和市南西部から戸田市にかけての地域は、鎌倉時代から徳川家康の江戸入国まで鎌倉の鶴岡八幡宮の領地で、佐々目郷とよばれていました。その佐々目郷の中心が、室町時代初期の記録である『鶴岡事書日記』に「氷河宮」として記載があるこの氷川神社であったと考えられています。
境内は前池型庭園様式とよばれるもので、拝殿の前にひょうたん形の池が配置されています。同様の境内は鶴岡八幡宮や三島大社などでも見られますが、その源流は平安時代の貴族住宅である「寝殿造り」の庭の造りにあるともいわれています。古社である内谷氷川神社に相応しい中世的な境内といえます。
なお、この境内は昭和五十六年に整備されましたが、それに先立って五十四年に実施された池の発掘調査では、平安時代ころのものと見られる須恵器、土師器や布目瓦などが出土し、既に古代にはこの場所に何らかの施設があったことがわかりました。(氷川神社・浦和市教育委員会掲示より)
内谷氷川社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)