風渡野天神社。さいたま市見沼区風渡野の神社

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風渡野天神社。さいたま市見沼区風渡野の神社

風渡野天神社の概要

風渡野天神社は、さいたま市見沼区風渡野にある神社です。風渡野天神社の創建年代等は不詳ながら、風渡野村の鎮守として祀られ、雨乞いの神ではなかったともいいます。明治6年に村社に列格、明治41年、大字風渡野字鷲の無格社鷲神社(及び境内社の熊野社・稲荷社・秋葉社・神明社)、大字東門前字道際の村社湯殿社(及び境内社の稲荷社二社・雷電社)を合祀しています。

風渡野天神社
風渡野天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市見沼区風渡野204
祭日 -
備考 -



風渡野天神社の由緒

風渡野天神社の創建年代等は不詳ながら、風渡野村の鎮守として祀られ、雨乞いの神ではなかったともいいます。明治6年に村社に列格、明治41年、大字風渡野字鷲の無格社鷲神社(及び境内社の熊野社・稲荷社・秋葉社・神明社)、大字東門前字道際の村社湯殿社(及び境内社の稲荷社二社・雷電社)を合祀しています。合祀された無格社鷲神社は、江戸期には社領23石の御朱印状を拝領した大社で、かつては東門前に鎮座、東門前の地名由来の社だといいます。

新編武蔵風土記稿による風渡野天神社の由緒

(風渡野村)
天神社
村の鎮守なり、村民持。
鷲明神社
社領二十三石の御朱印は慶長年中賜れり、古門前村の地當村に屬せし頃は、當社は彼地にありしを、彼村當村を割て別に一村となせし時、今の地へうつせりといふ。
末社。熊野社、稲荷社
別當多寶院
本尊修験、中尾村玉林院の末、鷲山と號す、古は寶鷲山と號せしを、後今の院號に改たりと云、されど慶安年中の者に寶鷲院の名見えたれば今の名となりしは是より後の事知べし、本尊釋迦を安ず、開山祐運慶長四年四月三日寂す。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による風渡野天神社の由緒

天神社<大宮市風渡野二〇四(風渡野字往還東下)
当地は、大宮と岩槻の中ほどにある東西に細長い台地上にあり、東部には見沼代用水東縁が、西部には悪水堀が流れる。
当社参道の前を南北に通る道は古道で、当地から南に進むと江戸に通じているので江戸道、北に進むと原市(上尾)に至るので原市道と呼ばれる。寛政十二年(一八〇〇)六月の村絵図によると、江戸道沿いから当社の参道が始まり、入るとすぐに鳥居があり、更に進むと本殿が描かれている。また、本殿裏手の境内東寄りに池が描かれている。この池は「天神池」と呼ばれていたという。
当社の創祀については、『風土記稿』に当地が「三沼代用水を引けども旱損あり」と記されるように天水場であったことから、祭祀は初め天神に降雨を祈るものであったと思われ、かつての村絵図の池は、溜池であったと考えられる。
祭神は、菅原道真公である。境内には、明治三十五年七月に氏子中が建立した「菅公千年記念碑」がある。
『明細帳』によると、明治六年四月に村社に列せられた。同四十一年四月十三日、大字風渡野字鷲の無格社鷲神社と同境内社の熊野社・稲荷社・秋葉社・神明社、同年八月二十日、大字東門前字道際の村社湯殿社と同境内社の稲荷社二社・雷電社を合祀した。
現在宮司は、武蔵一宮氷川神社の鎌田裕輝が奉仕している。(「埼玉の神社」より)


風渡野天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)