宗像神社。宝暦10年に弁天社として創建
宗像神社の概要
宗像神社は、さいたま市見沼区新右エ門新田にある神社です。宗像神社は、享保13年(1728)の見沼干拓によって造成された当地に、開拓に携わった農民が宝暦10年(1760)に弁天社として創建、明治維新後宗像神社と改号したといいます。

社号 | 宗像神社 |
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祭神 | 市杵島姫命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市見沼区新右エ門新田68 |
祭日 | - |
備考 | - |
宗像神社の由緒
宗像神社は、享保13年(1728)の見沼干拓によって造成された当地に、開拓に携わった農民が宝暦10年(1760)に弁天社として創建、明治維新後宗像神社と改号したといいます。
新編武蔵風土記稿による宗像神社の由緒
(新右衛門新田)辨天社
村民持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による宗像神社の由緒
宗像神社<大宮市新右衛門新田六八(新右衛門新田字八幡久保)>
新右衛門新田は、享保十三年(一七二八)の見沼干拓によって造成された新田の一つであり、その村名は、開発者であった大宮宿本陣の内倉新右衛門にちなんだものである。『明細帳』によれば、当社の創建は宝暦十年(一七六〇)九月吉日のことで、開発農民であった白鳥五兵衛・白子孫左衛門・白子六左衛門・田中平兵衛の四名によって建立されたものという。
本殿の中には、「弁財天」と陰刻した高さ七二センチメートル、幅二二・六センチメートルの石祠が安置されているが、この石祠こそが宝暦十年の創建当時の当社そのものであり、願主として先にあげた四名の名前が刻まれている。その後、村の発展に伴い、社殿が建立されて現在の姿になったものらしく、社殿内には元治元年(一八六四)九月吉日銘の棟札が保管されている。
『風土記稿』新右衛門新田の項に「弁天社 村民持」と記されているように、当社は創建以来「弁天社」と呼ばれてきたが、明治に入ると神仏分離の影響を受けて宗像神社と改称された。集落の北端にあたる境内には、大きな椎の木があり、遠くからでもよく位置がわかったが、枯死し、隣家に倒れると危険な状態になったため、やむを得ず昭和五十五、六年ごろ伐採した。また、社殿を囲む池には鯉が棲んでいたが、平成四年の干ばつで池が涸れそうになり、芝川に放流した。(「埼玉の神社」より)
宗像神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)