溜井弁財天。見沼三弁天、見沼弁財天
溜井弁財天の概要
溜井弁財天は、さいたま市見沼区膝子にある神社です。溜井弁財天の創建年代等は不詳ながら、正保3年(1646)に江戸新堀の加田屋助右衛門が公許を得て開発された加田屋新田に鎮座、見沼干拓の発端となった地で、一旦は沼地に戻されたものの享保年間に改めて開発され、江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿には稲荷社と共に祀られていたようです。行田市利根大堰付近にある「元圦樋守弁財天」、久喜市菖蒲町十六間堰のほとりにある「星川弁天」とともに「見沼三弁天」と呼ばれているそうです。
社号 | 弁財天 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市見沼区膝子 |
祭日 | - |
備考 | - |
溜井弁財天の由緒
溜井弁財天の創建年代等は不詳ながら、正保3年(1646)に江戸新堀の加田屋助右衛門が公許を得て開発された加田屋新田に鎮座、見沼干拓の発端となった地で、一旦は沼地に戻されたものの享保年間に改めて開発され、江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿には稲荷社と共に祀られていたようです。行田市利根大堰付近にある「元圦樋守弁財天」、久喜市菖蒲町十六間堰のほとりにある「星川弁天」とともに「見沼三弁天」と呼ばれているそうです。
新編武蔵風土記稿による溜井弁財天の由緒
(加田屋新田)
加田屋新田は江戸よりの行程前村に同じ、當所は江戸新堀に住せし加田屋助右衛門と云者公の免許を得延寶三年當所に来り、三沼の内入江沼を新墾して入江新田と號し、元禄十年酒井河内守検地ありしに、其後近郷より用水の障りなることを訴ふるにより、もとの沼地となりしが、享保の頃三沼一圓に開發の命ありし故、願ひ上げて再び當所を開き、己が家號をもて加田屋新田と呼りと云、
神社
辨天社
稲荷社
以上村民の持(新編武蔵風土記稿より)
近隣掲示板による溜井弁財天の由緒
見沼七弁天
見沼田んぼ開発の際に、井澤惣兵衛為永は、水路沿岸要所に弁天社を祀り、水路の安定と豊作を祈願したといわれています。
見沼に沿って七つの弁天社が祀られているため、これらを総称して見沼七弁天と呼ばれています。見沼に面した台地の各所には社があり、「弁天下」など地名ものこっています。どの社をもって、七弁天とするかは、定かではありませんが、水に畏敬の念をもっていたことが伺い知れます。
「見沼弁財天」は別名「溜井弁天」ともいい、見沼が開発される数十年前の延宝年間に開田された所で、見沼干拓の発端となった由緒ある場所です。昭和五十四年の埼玉合口二基事業の無事完成を祈念して社殿を新築しました。
弁財天は白蛇を弁財天の使いとしていると言われ、昔から水の神様として、水を治め、水難からの守護として人々の信仰を集めてきました。江戸時代の村人は自然の猛威による水田の壊滅的打撃を最も恐れ、台風、長雨などからの風水害から守るため、水の神である弁天社を多く祀ったのでしょう。(近隣掲示板より)
近隣掲示板による溜井弁財天の由緒
見沼弁財天(溜井弁天)
さいたま市見沼区大字加田屋新田は、代用水開削以前の見沼溜井の北端にあたります。見沼溜井開発の数十年前、延宝年間(1670年代)に開田されたところで、見沼干拓の発端となった由緒ある場所です。現在の社殿は、昭和54年に埼玉合口二基事業の無事完成を祈念して見沼代用水土地改良区が新築しました。見沼代用衰沿いには小さな弁天祠が数多くありますが、この「溜井弁天」、行田市の利根大堰付近にある「元圦樋守弁財天」、久喜市菖蒲町の十六間堰のほとりにある「星川弁天」とともに「見沼三弁天」と呼ばれます。(近隣掲示板より)
溜井弁財天の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)