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下大久保諏訪社。さいたま市桜区下大久保の神社

下大久保諏訪社の概要

下大久保諏訪社は、さいたま市桜区下大久保にある神社です。下大久保諏訪社の創建年代等は不詳ながら、応安2年(1369)銘の文書に「大窪郷すはの大名神」の記載があるといい、室町時代以前よりの鎮座だといいます。江戸期には下大久保村の鎮守として字中郷に祀られていたものの、元禄7年(1694)以降の新田開発に伴い当地へ移転、明治6年村社に列格したといいます。

下大久保諏訪社
下大久保諏訪社の概要
社号 諏訪社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 天神社、稲荷二社
住所 さいたま市桜区下大久保1029
祭日 -
備考 -



下大久保諏訪社の由緒

下大久保諏訪社の創建年代等は不詳ながら、応安2年(1369)銘の文書に「大窪郷すはの大名神」の記載があるといい、室町時代以前よりの鎮座だといいます。江戸期には下大久保村の鎮守として字中郷に祀られていたものの、元禄7年(1694)以降の新田開発に伴い当地へ移転、明治6年村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による下大久保諏訪社の由緒

(下大久保村)諏訪社
村の鎮守なり、浄泉寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による下大久保諏訪社の由緒

諏訪社<浦和市下大久保一〇二九(下大久保字新田)>
当地は中世に大窪郷に属していた。応安二年(一三六九)の「大窪郷地頭方三分一方田畠注文」(正木文書)の中に、「田大 畠二反すはの大明神」と当社の免田畠が見え、当時田畠の年貢・公事が免除されて、その分が当社に給付されていたことがわかる。
口碑によれば、当社は、初め下大久保村の中郷にあったが、元禄七年(一六九四)以降に新田が開発されたことに伴って現在地に移転したとされ、そのころの当社付近は新田でも新しい土地であったため、境内の広さもわずか七五坪しかなかったという。こうした話からは、新田開発が順調に進むことを願い、新田に当社を移して奉斎した当時の人々の心情をうかがうことができる。『風土記稿』下大久保村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、浄泉寺の持」と載る。神仏分離を経て、当社は明治六年四月に村社に列した。
本殿には、白幣と共に、嘉永七年(一八五四)に江奈本甚平によって奉納された板絵が安置されている。この板絵には、太刀を帯び、鋭い眼光でにらむ建御名方命の姿が彩り豊かに描かれていたが、現在ではその輪郭が分かる程度にまで摩滅しているのが惜しまれる。
なお、別当であった曹洞宗浄泉寺は、明治四年に廃寺となり、その後は薬師寺として存続していた。しかし、昭和三十年の中ごろにはこれも取り壊され、その跡地はゲートボール場になっている。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による下大久保諏訪社の由緒

当社は、信濃国の諏訪大社の御分霊を下大久保の地に勧請されたもので、五穀豊穣・国土開発の神として信仰されている。創立年代は不詳なるが、南北朝時代の応安二年七月二十八日(一三六九)の正木文書の足立郡大窪郷地頭方田畠注文の中に「すはの大名神」と記載されている古社である。当初は中郷に創建されたが、江戸時代新田地区の開発に伴い、当地に移築したと伝えられる。なお、本殿は地元の名匠。志村弥五郎の作である。(境内掲示より)


下大久保諏訪社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)