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起志乃天神社。さいたま市浦和区岸町の神社

起志乃天神社の概要

起志乃天神社は、さいたま市浦和区岸町にある神社です。起志乃天神社は、京都から移り住んだ当地の名主青山忠勝が永仁6年(1298)に勧請したといいます。

起志乃天神社
起志乃天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市浦和区岸町5-8-9
祭日 -
備考 -



起志乃天神社の由緒

起志乃天神社は、京都から移り住んだ当地の名主青山忠勝が永仁6年(1298)に勧請したといいます。

「埼玉の神社」による起志乃天神社の由緒

天神社<浦和市岸町五-八-九(岸町五丁目)>
当社の創建は明治四年に青山貞勝によって建立された天満宮の石祠に「当天満宮者永仁六年(一二九八)藤原朝臣忠勝京都より勧請鎮座」と刻まれ、当地の名主を務めていた青山家には、先祖の藤原朝臣忠勝が京都から移り住んだとの伝えがある。また、青山家は調神社境内の「日蓮駒つなぎの欅」の由来譚にも登場する。それによれば「文永八年(一二七一)同家の妻女が難産で苦しんでいたのを佐渡に流される途中の日蓮が聞きつけ、調神社境内の欅に馬をつないで祈禱したところ、程なく男子が誕生した」という。この伝説は「調神社七不思議」の一つとして語られており、同家はこうした話が伝えられてもおかしくないほど、古くから重要な地位の家柄であったことは確かである。
このようなことから、当社は、鎌倉時代後期に青山忠勝が京より当地に移住した後、北野天満宮の分霊を同家の氏神として勧請し祀ったものであろう。また『風土記稿』岸村の項によれば、当社は真言宗福寿寺の持になっており、江戸期には地域の神社としても祀られていた。この福寿寺は、古くは調神社の祭祀を兼帯で務めていたが、かつて同寺の庵であった月山寺が調神社の別当となってから、当社とのかかわりを強め、化政期(一八〇四~三〇)には寺僧の私唱であるが、当社にちなんで「菅原山」と号していた。ちなみに同寺は、享徳四年(一四五五)の開山と伝えられ、神仏分離後に廃寺となった。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による起志乃天神社の由緒

(岸村)天神社
神體坐像にて、外に千葉介貞胤が書る神號を安ず、其面に後の貞胤と記したり、按に下総國葛飾郡船橋村神明社に同人の願書あり、正保三年と記したれば、古きものにはあらず、本村福壽寺の持(新編武蔵風土記稿より)


起志乃天神社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)