上落合地蔵堂。さいたま市中央区上落合にある寺院

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上落合地蔵堂。さいたま市中央区上落合にある寺院

上落合地蔵堂の概要

寺院の上落合地蔵堂は、さいたま市中央区上落合にある地蔵堂です。上落合地蔵堂の創建年代等は不詳ながら、江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿に「地蔵堂。村持」とある他、当堂で所蔵している庚申塔が延宝二年(1674)・延宝三年(1675)銘であることから、江戸時代前期には村で共同管理していたものと思われます。

上落合地蔵堂
上落合地蔵堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
住所 さいたま市中央区上落合5-6-2
宗派
葬儀・墓地 -
備考 -



上落合地蔵堂の縁起

上落合地蔵堂の創建年代等は不詳ながら、江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿に「地蔵堂。村持」とある他、当堂で所蔵している庚申塔が延宝二年(1674)・延宝三年(1675)銘であることから、江戸時代前期には村で共同管理していたものと思われます。

新編武蔵風土記稿による上落合地蔵堂の縁起

(上落合村)
地蔵堂
村持、(新編武蔵風土記稿より)

「与野市史」による上落合地蔵堂の縁起

天保七年(一八三六)七月の「上落合村絵図」には村の中央に地蔵堂と記されている。また、天保九年三月の「上落合村差出帳」には地蔵堂境内除地二畝二〇歩との記載が見られる。
本尊の地蔵菩薩立像は像高四五・九センチメートル、寄木造り・彫眼で江戸前期と推定される優れた仏像である。
脇仏は杉材と思われる寄木造り・彫眼の地方色豊かな木造地蔵菩薩立像である。その製作年代は江戸後期と推定されている。
境内入口には貞享二年(一六八五)二月に造立された光背型の石造・如意輪観音坐像が立っている。これは二世安楽供養のために造立されたもので、蓮台右側面には、「おみや、おきく、おるい」など九名が刻まれている。また百万遍供養仏講中二三名の人たちが享保十四年(一七二九)に造立した丸彫りの石造地蔵菩薩立像も立っている。境内で一番大きい石造物は本堂の右手前に立っている宝篋印塔で、その基壇部正面には寛政二年(一七九〇)十一月二十七日浄念法師とあり、背面には「武州足立郡上落合村助力宗源、江戸神田平永町願主覚直」と刻まれている。
門の入口にある「不許葷酒入山門」と刻まれた戒壇石はもと上峰村の松源寺という禅寺の山門に立っていたものであるが、明治五年同寺が廃寺になり、転々としていたので近藤庄作氏(故人)が現在地に移したものである。
門前の延宝三年(一六七五)八月にに造立された庚申塔の基壇部には上落合村の天野七郎右衛門ほか一一名の結衆の名が刻まれている。
また門前には宝暦二年(一七五二)の光背型石仏・六地蔵立像、宝暦十四年(一七六四)の「西国坂東秩父大慈大悲観世音菩薩」と刻まれた角柱型供養塔、明和九年(一七七二)九月井山勘右衛門が造立の「奉納一万地蔵大菩薩」と刻まれた石造地蔵菩薩坐像、安永六年(一七七七)に再造立した馬頭観音などの石造物が見事に並立している。(「与野市史」より)


上落合地蔵堂所蔵の文化財

  • 延宝二年銘の庚申塔
  • 延宝三年銘の庚申塔

延宝二年銘の庚申塔

庚申塔は、十干十二支の組合わせで六十日に一度めぐってくる庚申の夜、体内の三尸(上・中・下尸の三匹の虫)が抜け出し、天帝にその人の諸行を報告するという教えから、その晩は三尸が抜け出さぬよう夜明かしをし、健康長寿を願った民間信仰の「講」が造立したもの。
この庚申塔は、一六七四年に天野三右衛門他「講中」が造立しました。一般的な庚申塔と異なり、本尊が刻まれておらず、板碑型の正面には講中の幸福と健康を願い造立した趣旨が刻まれています。総高九十センチメートル。
平成十二年、市指定文化財となりました。(さいたま市教育委員会掲示より)

延宝三年銘の庚申塔

庚申塔は、十干十二支の組合わせで六十日に一度めぐってくる庚申の夜、体内の三尸(上・中・下尸の三匹の虫)が抜け出し、天帝にその人の諸行を報告するという教えから、その晩は三尸が抜け出さぬよう夜明かしをし、健康長寿を願った民間信仰の「講」が造立したもの。
この庚申塔は、一六七五年に天野三右衛門他「講中」が造立しました。駒型の正面には、仏菩薩を表す種子、一面三目六臂の忿怒の様相で悪疫を退治する青面金剛像、左右に日・月、下段には神使の三猿がいて「見ざる、聞かざる、言わざる」という謹慎をあらわしています。総高一四三・三センチメートル。
平成十二年、市指定文化財となりました。(さいたま市教育委員会掲示より)

上落合地蔵堂の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「与野市史」