清浄院。岸将監が庵室として草創、北足立八十八ヵ所霊場
清浄院の概要
真言宗智山派寺院の清浄院は、長松山青蓮寺と号します。清浄院の創建年代等は不詳ながら、村の庄屋を勤めていた岸将監が帰依して屋敷内に結んだ草庵を、傳今が開山、天正2年(1574)村民が諮り当地へ移転したといいます。当寺所蔵の絹本着色両界曼荼羅は、今羽にあった修験三明院に祀られていたもので、三明院廃寺の後に当寺へ移されたものだといいます。北足立八十八ヵ所霊場17番です。
山号 | 長松山 |
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院号 | 清浄院 |
寺号 | 青蓮寺 |
住所 | さいたま市北区吉野町1-36-2 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
清浄院の縁起
清浄院の創建年代等は不詳ながら、村の庄屋を勤めていた岸将監が帰依して屋敷内に結んだ草庵を、傳今が開山、天正2年(1574)村民が諮り当地へ移転したといいます。その後当地の代官熊澤彦兵衛が寛永4年(1627)に若干の地を免除、時の僧空圓を法流開山とするといいます。
新編武蔵風土記稿による清浄院の縁起
(吉野原村)
清浄院
古義真言宗、高野山法性院の末、長松山青蓮寺と號す、當寺の草創を尋ぬるに、古へ當村に岸将監といへる人あり、佛法歸依のものなりしかば、己が屋敷に庵室を結びて、ある如法の僧を置、行基の刻める阿彌陀の像を安ぜしが、其後天正二年村民等相謀てここに移せりと云、かの将監がさきに基を起せし頃、村の庄屋を勤しゆへ、土俗庄屋坊と呼び、未だ寺號もなかりしをもて、時の住僧壽傳今の寺號を銘すと云、此頃の寺地は今境内にある稲荷社のあるあたりなり、後寛永四年熊澤彦兵衛當所を支配せしとき、若干の地を免除せり、此時の僧空圓なるもの高野山にゆかりあるをもて、同寺の末に隷す、因てこれを法流の開山と稱す、本尊不動は寶永二年地頭戸田中務大輔が寄附なり。
稲荷社。
阿彌陀堂。
鐘樓。享保十二年の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
清浄院所蔵の文化財
- 絹本着色両界曼荼羅(埼玉県指定有形文化財)
絹本着色両界曼荼羅
曼荼羅という言葉は梵語から出ています。本来の意味は祭壇・道場(悟りの場)等を指していますが、それが転化して、祭壇上に祭られる緒仏の集会の様子、またその境地にあらわれる功徳などを示した絵画をいうようになりました。神秘的・象徴的な密教の宇宙観を物語る仏教絵画です。
両界とは金剛界と胎蔵界のことで、この二つを合わせて両界曼荼羅といいます。図はともに、密教の最高至上仏である大日如来を中心に緒仏諸菩薩等が整然と配列されています。金剛界は大日如来の知徳を教え示したもので、九会から成り、一四六一尊の仏菩薩等が描かれています。胎蔵界は大日の慈悲の徳をあらわしており、図様は十三院から構成され、四一四尊の仏菩薩等が配されています。これらは表裏一体の関係にあって真言密教の根本教理をあらわす重要な図像です。古くは壇上に置いて加持祈祷の儀式に用いられました。
清浄院に伝わる曼荼羅の伝来は明らかでありませんが、古く廃寺となった市内今羽の三明院に伝わっていたものを、当院に移して今日に伝えたものともいわれています。現状で縦九五センチメートル、横七六センチメートルを計ります。
絹地に緒尊・密教法具等が極彩色で描写され、古色のうちに優雅な品位を備えています。各尊の面相はいたんでいますが、像容の輪郭はよく残っており、すぐれた描写の筆跡がみられます。表装は襦子地に金泥の描表装で、輪宝や羯麿等の仏具が描かれています。図柄や絹地からみてその製作年代は南北朝時代と推定され、埼玉県下の曼荼羅のうちでも比較的早い時代の作品として貴重な存在です。(埼玉県教育委員会掲示より)
清浄院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」