松木毘沙門堂。さいたま市緑区松木にある天台宗寺院

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松木毘沙門堂。さいたま市緑区松木にある天台宗寺院

松木毘沙門堂の概要

天台宗寺院の松木毘沙門堂は、さいたま市緑区松木にある毘沙門堂です。松木毘沙門堂の創建年代等は不詳ながら、毘沙門堂と称して江戸期には祀られていたといい、昭和17年から天台宗吉祥寺の管理となったといいます。

松木毘沙門堂
松木毘沙門堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 毘沙門堂
住所 さいたま市緑区松木2-7
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



松木毘沙門堂の縁起

松木毘沙門堂の創建年代等は不詳ながら、毘沙門堂と称して江戸期には祀られていたといい、昭和17年から天台宗吉祥寺の管理となったといいます。

境内石碑による松木毘沙門堂の縁起

松ノ木毘沙門堂霊園縁起
説話集に拠れば、今より壱千弐百五拾年位前、松ノ木の中心地である(現在地は松林であったと云う)当地を一ヶ年余掛けて開墾し、当毘沙門堂を新築、村人の集会所として使用、当時施主の人達は四世帯位だったと云う。施主の代表として、二人位で部落発展の為参ヶ月餘りも掛けて大和国におもむき、毘沙門天王を戴いて来て現在に至ったそうです。
其の後、今より五百年位前より墓地の話が出て其の話が成立し、現在の墓地が出来上がった訳だそうです。伝聞に拠れば、以前の墓地は、現在の墓地より西の方一七〇米位、江戸岩槻間道沿高台にあったという説が濃厚の様です。
これより毘沙門天王の由来について話して見ることにしましょう。雑誌「仏教行事歳時記七月号夏祭」に記載の記録に拠れば、毘沙門天王は大和國信貴山で、寺伝では第三十一代用明天皇二年(六世紀末)聖徳太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦った時、信貴山上に突如出現した毘沙門天王の加護によって勝利を得、尚信仰に拠ればあらゆる邪魔者を退散し心を強く持ち、どんな困難に出合っても我慢して、強い精神と慈悲の心を持って何事も行えと教えており、右手に三叉戟を執り、左手に宝塔を、又この宝塔はこの中に充満する福を信ずるものと、家運隆盛、商売繁昌等願いに任せて与えてやるとの福徳の御印であって、毘沙門天王は二十八人の死者を自由自在に掌るという強さがあり、其の内の一人に、松ノ木毘沙門天王が加えられて居ると云う話が今尚私達の耳に聞こえてくるのであります。
又、観音様については、今より三百五十年位前に観音様を背負って来た宿無坊様が、当所に寝泊りしていて此の毘沙門天堂にも観音様を祀ったらどうかと云われて話がまとまり、当観音様を祀ることになったと云う。
又明治廿六年三月廿二日に松ノ木の人達が使う膳椀を松ノ木の人達全員の寄附金で購入した。其の寄附者の氏名等は今尚膳椀入れの箱の裏に記されています。それから又大正十五年秋に於て当本堂改築改造を行いました。発起人、肥留間謙三、肥留間時蔵、世話人肥留間友次郎、肥留間義平、肥留間儀八、布川傳右エ門、肥留間五郎吉、肥留間小四郎、肥留間紋次郎、の方々の努力に依り東側六帖を増築して現在迄来ましたが、此の度浦和市都市計画事業松木特定土地区画整理事業に当り旧本堂も解体して、ここに立派な毘沙門堂宇の新築、霊園が完成されました。そして毘沙門像、観音像二体と御厨子の修理塗装を行い、新装なった新堂宇へ遷座いたしました。尚六地蔵尊も風雨にさらされ破損がはなはだしい為元の台石を使用して新しい六地蔵尊を建立いたしました。誠に慶賀に堪えない次第であります。
堂宇建設、霊園整備にあたり、関係皆様方の御支持御支援はもとより暖かい御協力に依りまして、見事に毘沙門堂宇、霊園が完成されました事を謹んで関係皆様方と共にお喜び申し上げます。
平成元年十一月吉日(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による松木毘沙門堂の縁起

(三室村)
毘沙門堂。(新編武蔵風土記稿より)

「さいたま市史料叢書」による松木毘沙門堂の縁起

天台宗毘沙門堂(三室)
埼玉県管下武蔵国北足立郡三室村字松木
昭和十七年二月四日浦和市大字中尾天台宗吉祥寺ヘ所属ノ件認可
天台宗毘沙門堂
一本尊:毘沙門天
一由緒:不詳
一本堂:間口三間奥行三間
一庫裏:間口三間奥行三間半
一境内:百拾坪、民有地第二種、肥留間慶作外廿九人持
一敷地:廿五坪、民有地第三種村持
一信徒:三十人 墓地ニ付引裂願中
一管轄庁迄:一里十五丁
以上(「さいたま市史料叢書」より)


松木毘沙門堂の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「さいたま市史料叢書」(さいたま市)