妙玖寺。さいたま市西区中釘にある真宗大谷派寺院

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妙玖寺。土佐藩主山内忠義の母(加藤清正の長女)の願いにより創建

妙玖寺の概要

真宗大谷派寺院の妙玖寺は、中釘山山内院と号します。妙玖寺は、土佐藩主山内忠義の母(加藤清正の長女)の願いにより、慶長18年(1613)果成寺と号して創建、元和4年(1618)に山内忠義の母が亡くなり(妙玖院)その菩提寺となり妙玖と改号したといいます。その後山内忠義の弟一唯が二代将軍徳川秀忠から指扇領十八か村三千石を元和9年(1623)に配領、四代豊房が土佐藩を継ぐまで代々の菩提寺となったといいます。

妙玖寺
妙玖寺の概要
山号 中釘山
院号 山内院
寺号 妙玖寺
住所 さいたま市西区中釘1218
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



妙玖寺の縁起

妙玖寺は、土佐藩主山内忠義の母(加藤清正の長女)の願いにより、慶長18年(1613)果成寺と号して創建、元和4年(1618)に山内忠義の母が亡くなり(妙玖院)その菩提寺となり妙玖と改号したといいます。その後山内忠義の弟一唯が二代将軍徳川秀忠から指扇領十八か村三千石を元和9年(1623)に配領、四代豊房が土佐藩を継ぐまで代々の菩提寺となったといいます。

新編武蔵風土記稿による妙玖寺の縁起

(中釘村)妙玖寺
一向宗、東本願寺末、中釘山と號す、當寺は松平土佐守忠義の母志願によりて、慶長十八年建立する所なり、故に其法號をとりて妙玖寺と名づく、此尼は加藤主計頭清正の長女にして、女ながらも勇氣の聞ゑありし人なり、元和四年九月五日終る、忠義の弟豊前守一唯及び子一輝も當寺に葬りてあり、故に土佐守が家より今二佛餉米二十五石づゝを送ると云、本尊は妙玖院の守本尊なりし彌陀の立像を安置す、惠心の作といふ。
聖徳太子像一軀。親鸞上人の作、山内豊前守一唯、曾て一堂を建立して安置せしものなりしが、其後廢頽せし故こゝに置り。
鐘楼。延寶五年の鑄造なり。(新編武蔵風土記稿より)


妙玖寺所蔵の文化財

  • 指扇領主山内一唯一族の墓(市指定文化財史跡)

指扇領主山内一唯一族の墓

指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、大坂の陣で軍功のあった土佐藩主山内忠義の実弟・一唯が、元和九年(一六二三)に二代将軍徳川秀忠から指扇領十八か村三千石を配領したことにはじまります。
四代豊房が土佐山内豊昌の養子となるまで、一唯、一輝、一俊、豊房と六十七年間、中釘に陣屋を構え当地を治めました。一唯は荒川の洪水を防ぐため堤防を築き、宝来野を開発して新田をひらくなど多くの治績を今に伝えています。
ここ妙玖寺は、古くは果成寺といいましたが、一唯が母・妙玖院の菩提寺としたことから寺号を改めたもので、墓所には、一唯、一輝、栄松院(一唯の継室、一俊の実母)、法養院(栄松院の実母)の墓があります。
指扇の地が幕府の直轄地となった後も、土佐山内家では代々の藩主が代参を派遣して妙玖寺を崇敬・保護し、多くの仏具を寄進しました。(大宮市教育委員会掲示より)

妙玖寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」