横沼白髭神社。坂戸市横沼の神社
横沼白髭神社の概要
横沼白髭神社は、坂戸市横沼にある神社です。横沼白髭神社の創建年代等は不詳ながら、横沼村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格、明治40年には字北登戸の稲荷社・字北方の八坂社を合祀、大正年間に字前原方の稲荷社を合祀しています。
社号 | 白髭神社 |
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祭神 | 猿田彦命 |
相殿 | 清寧天皇、合祀神 |
境内社 | 八幡社、氷川社、稲荷・疱瘡・金比羅、八坂 |
祭日 | 例祭3月15日・10月15日 |
住所 | 坂戸市横沼346 |
備考 | - |
横沼白髭神社の由緒
横沼白髭神社の創建年代等は不詳ながら、横沼村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格、明治40年には字北登戸の稲荷社・字北方の八坂社を合祀、大正年間に字前原方の稲荷社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による横沼白髭神社の由緒
(横沼村)
白髭社
村の鎮守なり、神體圓き銅の内に鑄いだしたる像にして、年號等も見えず、古き物には非るべし、此社内に氷川と八幡の二神を祀る、忠榮寺持。
末社。稲荷社、牛頭天王社、疱瘡神社、金毘羅社。
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稲荷社
牛頭天王社
二社共に村民持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による横沼白髭神社の由緒
白髭神社<坂戸市横沼三四六(横沼字南方)>
当地は東に越辺川及び入間川が流れ、古くから洪水に悩まされた所である。なお水害は広く隣村の小沼や紺屋にも及んでいる。現在、村の東側にある水田地帯は往時河川が最も乱流した所である。
毎年襲来する台風に村人は悩まされたが、一面、養分を含んだ土壌が堆積されたため他所より収穫の多い土地となっていた。
当社は、この水田地帯から西にやや上がったところに鎮座し、創立についてはその史料を欠くため明らかではないが、おそらく五穀豊穣・村中安穏を祈り社を建立したものと思われる。
主祭神は清寧天皇・猿田彦命で、合祀神は保食命である。『風土記稿』には「神体円き銅の内に鋳いだしたる像にして年号等も見えず」とあるが、現在は内陣にこの懸仏はなく、白髭神像を安置している。
本殿は一間社流造りで、『明細帳』には「享保二丁酉年十一月再営なる由棟札現存す」とある。また、左右には、氷川社・八幡社があり、氷川社の幣串には「氷川文政八年酉四月再建之隆城代」の銘文がある。
別当は、神仏分離まで真言宗忠栄寺が務め、境内には「別当 忠栄寺恵秀代」の銘文がある寛政一〇年に建立の石鳥居がある。
明治五年に村社となり、同四〇年には字北登戸の稲荷社・字北方の八坂社を合祀し、更に大正期には字前原方の稲荷社を合祀している。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による横沼白髭神社の由緒
白髭神社の祭神は猿田彦命で、明治五年には村の鎮守として村社に列せられ、毎年三月十五日と十月十五日が例祭日となっている。
この神社の境内に幕末勤王の志士桜国輔(原徳操)の頌徳碑が建っている。
国輔は、本名原三郎といい天保十四年(一八四三)紺屋の名主原家に生まれ、十三歳のとき江戸に出て日尾荊山、塩谷宕陰に師事した。長じて、憂国の志やみがたく、名を国輔と改めて討幕運動に参加した。
慶応三年(一八六七年)三田の薩摩藩邸で焼き討ちにあった国輔は、小川香魚らの同志と脱出し、品川、府中、清瀬を経て永井村(三芳町)に至ったところ土地の博徒に襲われからくも切りぬけはしたものの、新河岸付近(川越市)で川越藩の鉄砲隊に撃たれて負傷し、今はこれまでと覚悟の自決を遂げた。時に慶応三年十二月二十五日、行年二十五歳であった。(埼玉県掲示より)
横沼白髭神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)