羽折稲荷神社下社。鶴ヶ島市下新田の神社

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羽折稲荷神社下社。下新田の下の社・奥社

羽折稲荷神社下社の概要

羽折稲荷神社下社は、鶴ヶ島市下新田にある神社です。羽折稲荷神社下社の創建年代等は不詳ながら、明暦年間(1655-1658)頃に成立した下新田村の鎮守として祀られていた社です。享保年間(1716-1736)には本山派修験清宝院が更に新田を開発し当社を分祀した羽折稲荷神社上社が祀られるようになると、いつしか当社が「下の社」・「奥社」と認識されるようになり、祭礼も羽折稲荷神社上社で行われるようなったといいます。

羽折稲荷神社下社
羽折稲荷神社下社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 鶴ヶ島市下新田
備考 -



羽折稲荷神社下社の由緒

羽折稲荷神社下社の創建年代等は不詳ながら、明暦年間(1655-1658)頃に成立した下新田村の鎮守として祀られていた社です。享保年間(1716-1736)には本山派修験清宝院が更に新田を開発し当社を分祀した羽折稲荷神社上社が祀られるようになると、いつしか当社が「下の社」・「奥社」と認識されるようになり、祭礼も羽折稲荷神社上社で行われるようなったといいます。

新編武蔵風土記稿による羽折稲荷神社の由緒

(下新田村)
稲荷社
村の鎮守なり、二月初午の日を例祭とす、村持。(新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による羽折稲荷神社の由緒

羽折稲荷神社
下新田字台に「上の社」が、字羽折に「下の社」が所在する。通称は上の稲荷様、下の稲荷様。旧社格は指定村社。祭神は倉稲魂命。社前に、周囲一丈を越えるご神木の杉(元町指定天然記念物)と、やはり一丈を優に上回る樫の木があったが、昭和五〇年代に両者とも枯死してしまった。
創立年紀は不詳であるが、羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。慶安元年(一六四八)の検地帳に「宮地七反八畝二六歩林稲荷免」とあるのは下の社の境内地である。字羽折周辺には古代及び中世の遺跡が広がっており、下の社の創立も中世にさかのぼると推定される。近世の開発によって集落の中心が上に移ると、羽折稲荷神社も上に分霊されていったものであろう。上の社の創立は、新田開発の時期や境内の石仏の銘文、ご神木(現在は二代目)の樹齢などから、近世前半を下らないと推定される。現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社と意識しており、下の社の多くは上の社へ移行している。
寛保二年(一七四二)には、この稲荷二社と山王社の別当寺として、上の社の付近に宝泉寺という無住の寺(浅羽の長久寺末)が建てられている。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)

「埼玉の神社」による羽折稲荷神社下社の由緒

稲荷神社<鶴ケ島町下新田四二八(下新田字羽折)>
当地は『風土記稿』によると、明暦のころ高倉村に属していた原野を開墾、分村して下新田村とした。次いで享保年間には、本山派修験清宝院が、更に新田を開発したという。
『風土記稿』下新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、二月初午の日を例祭とす、村持」とあり、下新田村新田の項には「稲荷社 華厳院持」「華厳院 当山派修験、入間郡小久保村、教法院の配下なり」と載せている。
現在、前者の稲荷社は“下の社”後者の稲荷社は“上の社”とも呼ばれていることからも、おそらく下新田村の開発に際し、五穀の実りを祈願して稲荷社を祀り、次いで枝村の新田開発に伴い、親村の鎮守であった同社の分霊を祀ったものと考えられる。
明治期に入り、親村の稲荷社は古来一村の鎮守であったことから村社となった。しかし時代が下るに従い、集落状況や地理的条件、氏子の意識の変化などにより歴史的経緯が忘れられ、本来、新田の守り神として祀られた稲荷社を鎮守として仰ぐようになり、現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社として意識しており、下の社の祭りの一切は上の社へ移行している。(「埼玉の神社」より)


羽折稲荷神社下社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」
  • 「埼玉の神社」