三福寺。坂戸市小山にある浄土宗寺院

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瑠璃光山三福寺。東方飛来の薬師如来御尊像

三福寺の概要

浄土宗寺院の三福寺は、瑠璃光山と号します。三福寺は、医師小山宗仙が東方飛来の薬師如来御尊像を大同元年(806)に奉安して薬師堂として創建したと伝えられます。武蔵守源満仲は正暦年間(960)大伽藍を建立、その後足利尊氏から寺領の寄附を受けたのを機に正平7年(1352)三福寺と号したいいます。天明年間(1781-1789)に對譽上人が堂宇を建立して中興したといいます。当寺本尊の木造薬師如来坐像は仏師湛慶の作といわれ、埼玉県文化財に指定されています。

三福寺
三福寺の概要
山号 瑠璃光山
院号 -
寺号 三福寺
本尊 薬師如来像
住所 坂戸市小山259
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



三福寺の縁起

三福寺は、医師小山宗仙が東方飛来の薬師如来御尊像を大同元年(806)に奉安して薬師堂として創建したと伝えられます。武蔵守源満仲は正暦年間(960)大伽藍を建立、その後足利尊氏から寺領の寄附を受けたのを機に正平7年(1352)三福寺と号したいいます。永禄5年(1562)小田原北条氏・武田氏と上杉氏との戦火により罹災、また天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し罹災、衰微したものの、元禄年間(1688-1704)に再興、天明年間(1781-1789)に對譽上人が堂宇を建立して中興したといいます。

境内掲示による三福寺の縁起

この寺のはじめは大同元年(八〇六)医師小山宗仙が東方飛来と称する薬師如来御尊像を安置したことにはじまると云う。後に源満仲(武蔵守)が正暦年中(九六〇)此の地に大伽藍を構へ堂塔を建立し家臣卜部太夫貞武に命じて薬師佛を守護させたといいその後、源の後裔足利尊氏の強い薬師佛信仰から庇護を受け寺は繁栄し将軍より田畑二十五町歩の寺領を下賜されたとある。この時正平七年(一三五二)初めて三福寺と寺号をつけたと記載されている。その後天正十八年(一五九〇)豊臣勢上杉景勝松山城攻略の折兵火にかゝり焼寺多く宝物を焼失したと云う。
その後幾度となく盛衰を繰り返したが天明年間普請奉行本郷大和守泰行の力を得て当山第九世對譽上人が約十五ヶ年の歳月を以って寛政十二年(一七九五)本堂並に庫裏を完成したのである。
現在は浄土宗鎮西派に即し埼玉縣下希にみる古刹寺院である。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による三福寺の縁起

(小山村)
三福寺
瑠璃光山と號す、浄土宗なり、本尊薬師立像にして長四尺二寸、春日の作なり、當寺起立の来由を尋ぬるに元薬師堂にて一寺にはあらず、其堂の草創は大同元年なりと云、天正十八年火災のために、此堂烏有となりしに、此薬師不思議に飛出て火を遁れけれど、半身は焦れたりと云ふ、今其像をみるに、背面はすべて炭の如く見ゆ、其後元禄年中一寺となり、川越蓮馨寺の末寺となれり、其中興せし僧を光譽一空と云、(新編武蔵風土記稿より)


三福寺所蔵の文化財

  • 木造薬師如来坐像(埼玉県指定文化財)

木造薬師如来坐像

「三福寺の薬師さま」として、古くから多くの村人に信仰されてきました。鎌倉時代に活躍した慶派の仏師湛慶の作と言われ、埼玉県内でも古い薬師さまです。
この薬師さまには、東の方角からこの地に飛んできたとか、戦国時代に戦火をのがれて松の木に飛び移ったなどの伝説があります。
江戸時代に書かれた縁起には、小山に住む宗仙という薬師如来を深く信仰している医師のところに、ある日、東の方から薬師如来が飛んできましたとあります。
このため、三福寺の薬師さまは、東方飛来薬師如来と呼ばれ、様々な悩みを救ってくれる仏様として信仰されてきました。
戦国時代の永禄五年(一五六二年)に、小田原の北条氏と甲斐武田氏の連合軍が松山城に押し寄せて来ました。そのときの戦いで、薬師堂も兵火にかかり焼失してしましました。薬師さまは、境内にあった松の木の上に飛び移り、火災の難を逃れたそうです。そのためか、薬師さまの背中と右頬に焼けどのあとが残っています。
鎌倉時代に活躍した、慶派の仏師湛慶の作像と伝えられています。檜の寄せ木造りの坐像で、像の高さは八〇cm、全身を漆塗りで覆い金箔が施されています。左手に薬壺を載せ、右手は手のひらを前に向け、指先が天上を指すように結ばれています。
江戸時代には、三福寺の本尊として広く庶民の信仰を集めて来ました。(坂戸市教育委員会掲示より)

三福寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」