萬福寺。坂戸市北浅羽にある真言宗智山派寺院

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天徳山萬福寺。浅羽氏一族の菩提寺

萬福寺の概要

真言宗智山派寺院の萬福寺は、天徳山地蔵院と号します。萬福寺は、源頼朝に仕えて当地を領有した淺羽小大夫行成の三男五郎兵衛行長が当寺を創建、浅羽氏一族の菩提寺として栄え、建武年間(1334-1336)には足利尊氏より田地の寄進を受けています。永享年間(1429-1441)に淺羽下野守・同左衛門大夫等が戦死、檀越を失ったことから衰退したものの、俊誠(元和元年1615年寂)が中興開山したといいます。当寺の板石塔婆は僧慧見が、祖先である浅羽行成のため徳治2年(1307)に造立したもので、埼玉県文化財に指定されています。

萬福寺
萬福寺の概要
山号 天徳山
院号 地蔵院
寺号 萬福寺
本尊 地蔵菩薩像
住所 坂戸市北浅羽193
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



萬福寺の縁起

萬福寺は、源頼朝に仕えて当地を領有した淺羽小大夫行成の三男五郎兵衛行長が当寺を創建、浅羽氏一族の菩提寺として栄え、建武年間(1334-1336)には足利尊氏より田地の寄進を受けています。永享年間(1429-1441)に淺羽下野守・同左衛門大夫等が戦死、檀越を失ったことから衰退したものの、俊誠(元和元年1615年寂)が中興開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による萬福寺の縁起

(北淺羽村)
満福寺
新義真言宗、今市村法恩寺の門徒なり、天徳山地蔵院と號す、相傳ふ當寺は當所の名家淺羽氏の菩提寺なりと、淺羽氏の事は【東鑑】等の書にも見えて、當國七黨の内の侍なり、猶上淺羽村の條見合すべし、されば古は當寺も然るべき古刹なりしならん、永禄の頃戰争の世に、上田周防守松山城を守りて落城の時、敵兵境内へ亂妨して放火せし後、一旦廢絶せしを、後に至りて俊誠と云僧再建せり、故に今此僧を中興開山とせり、寺傳に曰俊誠元和元年九月二十三日寂せり、寛文十年九月十三日淺羽三右衛門と云者の記せしものに當寺正八幡建立の来由を尋ぬるに、昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて、關東へ下向す、是を有道貫主遠峯と號す、其子を武蔵守惟行と云延久元年七月七日卒す、其庶流淺羽小大夫行成と云もの、右大将賴朝の時功ありて、兩淺羽・長岡・小見野・粟生田等の地を賜はる、又賴朝の命によりて、鶴岡正八幡を淺羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は、賴朝の供奉して奥州へ下り戰功ありしものなり、此人當寺を再建す、當寺昔は眞言律宗なり、後改て眞言宗となる、其後建武年中尊氏田地寄附の條あり、其文に曰く、
自元弘到建武戰死亡卒之幽靈數萬也、不弔者不可有因、茲淺羽之庄之中水田十町、畠田十町、永代寄進之、香花灯明誦經等、聊懈怠不可有者也、
建武三年七月十三日 源尊氏
其後永享年中當所の主、淺羽下野守・同左衛門大夫等鎌倉にて戰死し、其子孫久しく流浪して遥の後・永禄七年當所に来り暫く居住せしかど、又子細ありて出て、上野國佐野庄の内免鳥城に住せり、大旦越を失しにより、當寺も次第に衰へゆきしに、天正十八年小田原陣の時、敵の軍丙亂妨して堂宇を破却し空地となし、纔に草庵一宇と小社一宇とを殘せり、此後北南兩淺羽の淺羽が子孫もいよいよ衰へて、氏神菩提寺をも知らざるに至ると云々、されば當寺も今は纔法燈を失はざる計なり、本尊地蔵を安ず、
古碑。客殿の傍にあり、いと古質にして時代のものと見ゆ、圖左に
右爲壘祖淺羽小太夫有道行成朝臣其子孫等就彼故墳
梵字 徳治二丁□月日七代末孫比丘□□□□寛幹□□
奉造立也状願菩提茂近藤後毘本覺月朗達照幽冥也
此碑近き頃まで用水溝の梁に用ひて有しを、見出して爰に移し建りと云、傍に貞治三年甲辰七月十七日の斷碑あり、(新編武蔵風土記稿より)


萬福寺所蔵の文化財

  • 万福寺の板石塔婆(埼玉県指定文化財)

万福寺の板石塔婆

万福寺の境内にあるおおきな板碑(板石塔婆)は、鎌倉時代に北浅羽を中心に活躍した浅羽氏が、祖先の小大夫行成の霊をとむらうために建立したものです。
板碑に刻まれた文字は、浅羽氏を知る貴重な資料です。
板石塔婆は板碑とも呼ばれ、およそ鎌倉時代から戦国時代に、祖先の冥福を祈った追善供養や、自身の後生安楽を願う逆修のため、盛んに立てられました。初期の板碑は仏や菩薩の画像でしたが、仏を現す梵字などが刻まれるようになりました。
万福寺の板碑は、鎌倉時代の徳治二年(一三〇七年)に僧の慧見が、祖先である浅羽行成のために建立し、仏の教えにより浅羽一族を導いてほしいという願いが込められています。主尊のアーンク(梵字)は、真言宗の仏である大日如来を現しています。板碑は緑泥片岩で作られ、高さ二一二cm、幅八五cm、厚さ一四・六cmです。
浅羽氏は武蔵七党のひとつ児玉党武士団の一員で、板碑に刻まれている小大夫行成(行業とも書く)の時に「浅羽氏」を名乗っています。行成の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいます。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏)、五郎行直(粟生田氏)の三人の子がありました。みな在地の地名を名字にしています。
このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯に(入西地域)に勢力をもった豪族でした。(坂戸市教育委員会掲示より)

萬福寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」