慈眼寺。市指定天然記念物の黒這松
慈眼寺の概要
真言宗智山派寺院の慈眼寺は、慈眼寺は、栄祐(永正2年1505年寂)が開山したといいます。当寺の黒這松は、当寺が三ツ木の字宮内から当地字元屋敷へ移転した際に移植されたと伝えられ、鶴ヶ島市天然記念物に指定されています。
山号 | 普門山 |
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院号 | 蓮華院 |
寺号 | 慈眼寺 |
住所 | 鶴ヶ島市三ツ木512 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慈眼寺の縁起
慈眼寺は、栄祐(永正2年1505年寂)が開山、江戸期には三ツ木村に鎮座していた鎮守白髭社、牛頭天王、愛宕社、辨天社、稲荷社の別当を勤めていました。
新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起
(三ツ木村)
慈眼寺
普門山蓮華院と號す、新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院門徒なり、本尊觀音木の立像にて、行基の作と云、開山榮祐永正二年寂す、(新編武蔵風土記稿より)
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による慈眼寺の縁起
大字三ツ木字元屋敷に所在する。普門山蓮華院慈眼寺と号する。宗派は真言宗智山派で、総本山は智積院。本尊は十一面観音。
開山開基は不明であるが、過去帳などによると、永正二年(一五〇五)に寂した法印栄祐が開山とされている。『風土記稿』には、本尊の木造の観音立像は奈良時代の高僧である行基の作とあり、特筆される。寺の創立が奈良時代にさかのぽるという証拠はなく、行基の名もやや唐突に出てきているようにも見える。しかし行基は各地を巡って池堤築造をなしたことなどで知られており(当地の逆木の池が人工的な用水池であることがこうした行基にまつわる伝承を生んだのかも知れない。この行基作とされる十一面観音は寺が無住であった時期に管理していた家が火災にあい、その時に残念ながら焼失してしまった。
中世には三ツ木は二つの集落に分かれていたと推定されている。それぞれの集落には寺ないし堂が存在していたようである。上の寺(堂)は現在の字内山の墓地のあたりにあり、下の寺(堂)は字宮内の一角にあった。一つの集落が統合された際に、それぞれの寺(堂)も統合され、この両者の中央に新たに慈眼寺が創建されたものとも思われる。上にあった寺(堂)は観音堂であったことから、慈眼寺の本尊である十一面観音との関連が予想される。また、慈眼寺境内にある樹齢三百数十年ほどの黒松(市指定天然記念物)は、元々は下の方にあったが、後に現在地に移植したものと伝承されている。しかしいずれにせよ、近世初等にはすでに慈眼寺が現在地にあったことは古文書より明らかである。
近世以降、今泉村(現吉見町)の金剛院遍照寺を本寺とし、寺の運営がなされた。
明治になって、金剛院が智積院の門末に代わると、それに伴い慈眼寺も智積院を総本山とするようになった。昭和三年には本堂を建て代えその際に近くの薬師堂を取り壊して本堂に祀った。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)
慈眼寺所蔵の文化財
- 三ツ木慈眼寺黒這松(鶴ヶ島市指定天然記念物)
三ツ木慈眼寺黒這松
真言宗普門山蓮華院慈眼寺は、『新編武蔵風土記稿』に「開山栄祐永正二年(一五〇五)寂す。」とあり、このことから近世初頭にはその存在が明らかである。また、行基の作と伝えられる十一面観音菩薩を本尊としている。
慈眼寺は当初、柏原街道(鎌倉街道枝道)沿に建立されたと考えられるが、後にこの地域の信仰の中心となり、地元の人や往来する人々に安らぎを与えたのである。
寺の庫裡の前には、地を這うかのような黒松の老樹がある。
これは、伝承によると寺を三ツ木の下(字宮内)から現在の三ツ木中央(字元屋敷)に移設した際に移植されたと伝えられる樹木で、黒松の樹形としては市内において他に比すべきものがない。
なお、この松は黒松と赤松の雑種で八対二の割合で黒松が勝っている。(鶴ヶ島市教育委員会掲示より)
慈眼寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」