熊野神社(藤沢)。入間市下藤沢の神社

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熊野神社(藤沢)。延喜式内社出雲伊波比神社の論社

熊野神社(藤沢)の概要

熊野神社(藤沢)は、入間市下藤沢にある熊野神社(藤沢)です。熊野神社(藤沢)は、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原で、天穂日命、天夷鳥命を祭祀創建した出雲伊波比神社の論社(延喜式内社論社)だといい、当社の存在により下藤沢郷と呼ばれる地名が起ったといいます。戦国時代には熊野神社(藤沢)と称していたといいますが、江戸期には寄木明神社と称し、天正19年徳川家康より社領10石の御朱印状を拝領したといいます。明治2年熊野神社(藤沢)と改め、明治5年村社に列格していました。

熊野神社(藤沢)
熊野神社(藤沢)の概要
社号 熊野神社
祭神 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、須佐之男尊、速玉之男命、事解之男命
相殿 -
境内社 稲荷神社、山ノ神社
祭日 例大祭10月第3日曜日
住所 入間市下藤沢801
備考 旧村社



熊野神社(藤沢)の由緒

熊野神社(藤沢)は、日本武尊が東夷征伐の際、武蔵野で水に苦しんでいたところ神に導かれて湧水を発見できたことに感謝して創建したといいます。新田義貞は鎌倉幕府討伐の際に当社で戦勝を祈願、戦後社殿を修復したといい、天正19年(1591)には徳川家康より社領8石の御朱印状を拝領、寛永3年(1626)旧社地明ノ沢より朱印地となっていた当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による熊野神社(藤沢)の由緒

(藤澤村附新田)熊野社
御朱印八石村の鎮守なり、この二社も隼人持なり(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による熊野神社(藤沢)の由緒

当社の始まりは明確ではありませんが、伝えによると、第十二代景行天皇の皇子日本武尊が御東征のとき、武蔵野で飲み水に苦しまれましたが、そのとき神さまが現れて笛と太鼓で尊を当地の清水の湧き出る所に導いて尊の兵士たちを救われました。そこで尊は感謝してこの神さまをおまつりされたのが始まりだと伝えられています。
その後鎌倉時代の末、元弘三年(西暦一三三三)五月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めたときに当社で戦勝を祈願しますと、一羽の烏が旗の上にとまりました。烏は紀伊(和歌山県)の熊野大社の神さまのお使いだからめでたいといって士気があがり、ついに鎌倉幕府を滅ぼして建武の親政(中興)を実現し、義貞は感謝のしるしに当社を修造したと伝えています。
江戸時代の初めまでは当社は西方約三〇〇メートルの台地上にありましたが(旧社地に飛龍神社跡地の碑あり)、寛永三年(西暦一六二六)に現在地に移り、幕府から八石の朱印地をあたえられて下藤沢村の鎮守となり、明治になり村社に列せられてました。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による熊野神社(藤沢)の由緒

熊野神社<入間市下藤沢八〇一(下藤沢字水入)>
当地は不老川南岸の台地にある。地名の由来はこの流域に藤が多く生えていたことによるといわれる。
当社はかつて、不老川河岸の明ノ沢と呼ぶ所に鎮座して、社名を飛竜神社と称していた。この社名は、当地が往古、水の湧き出る所であったため、自然の滝の流れをもって神霊の宿るところとした紀伊国熊野三社権現の飛竜権現になぞらえたものである。
社記によると、日本武尊東征の折、武蔵野は水に乏しく難渋していたところ、突然神が現れて笛、太鼓を持って尊を迎え、清水を湧かせて一行の渇きを救ったため、尊は丘の上に木槌を立ててこの神を祀ったのが当社の創立と伝える。以後、この清水を霊泉とし、国井と呼び、不老川の水源ともなったという。旧鎮座地明ノ沢は、明けの沢とも呼ぶことから、おそらくハケ(崖)の沢が転訛したもので、湧水の地を示す地名であったと思われる。
下って鎌倉時代、社殿は荒廃するにまかせたが、元弘三年、新田義貞が鎌倉攻めの折、この地を訪れ、当社に戦勝を祈願すると、一羽の鳥が旗の上に止まったことから、鳥は熊野の神の使いで奇端であるとして全軍の士気があがり鎌倉で大勝した。これにより義貞は、勝ち戦を熊野の神威によるものとして社殿を再興し、剣を奉納したと伝える。
社殿を現在の水入の地に移転したのは、旧社地がハケにあり、時がたつにつれて徐々に崩れて狭くなったためといわれている。また、口碑には、「ツチ」と呼ばれる尾にも頭がある蛇が棲んでいて、神職が祭りに行くと車輪が回転するようにツチが追いかけてくるので社にいけなくなったためともいわれている。移転は、天正一九年一一月、徳川家康より与えられた八石の朱印地の中で、寛永三年四月に行った。現在、旧社地の跡は、熊野神社の飛び地境内となり、記念碑が建立されている。大正一〇年ごろまでは、まだ旧社地に木造の小祠があり、そばには湾曲した柏の大木が生えていた。この辺は「オミタラシ」とも呼ばれ、柏の幹からは、たらたらと水がたれていたという。
祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉之男命・須佐之男命・事解之男命である。内陣に白馬に止まる鳥の神使像が安置されている。
本殿は一間社流造りで、今から三〇〇年前の建立と伝え、これを建造したのは藤太夫と称する名工で、北野天満宮も建立したという。(「埼玉の神社」より)


熊野神社(藤沢)所蔵の文化財

  • 藤沢の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
  • 熊野神社の大スギ(入間市指定天然記念物)

藤沢の獅子舞

藤沢の獅子舞は五穀豊穣・無病息災を祝い、祖先の霊に感謝を捧げる舞として伝えられているが、起源については明らかでない。神官の沢田家に残された文書によれば延宝八年(一六八〇)九月九日熊野神社修復のおり奉納された記録が残っている。
獅子舞は十月の第三土・日曜日に行われ、そろい(土曜日)は金比羅神社、本祭り(日曜日)は不動院・熊野神社で奉納される。金棒・ささら(花笠)・はいおい(天狗)・しし(からじし・おとじし・めじし)・ほら貝・笛・唄がかり・ささらかかり・そがかり・露払いの役割は、児童生徒・青年・壮年・老年の各年齢層、約四十名の稽古連中により構成されている。
舞は一の狂いを花がかり、二の狂いを竿がかりといって秋の宝をめじしに見たて、かしらじし、おとじしの二頭がその宝を奪い合う舞である。(入間市教育委員会掲示より)

熊野神社の大スギ

スギは、スギ科の常緑高木で、日本固有の植物である。花は、三月から四月ころ咲き、雌花は緑色で小枝の先につき、雄花は黄色で穂状に集まって咲く。実は十月ころ熟す。この大スギは、目通り四・〇五メートル、枝張り二十五メートルで樹齢約六百年である。
熊野神社の伝説によれば、新田義貞が鎌倉攻めのため、元弘三年(一三三三)五月八日上野国(群馬県)を出陣して下藤沢明の沢に着陣したところ、南方からカラスが一羽飛来し、義貞の旗上に止まった。義貞は、日本一霊験あらたかな紀州熊野宮(和歌山県)の飛竜の神のたすけであると喜び、ついに鎌倉攻めに勝利を得、帰途立ち寄ってここに飛竜神社を建立した。その後、村の中央に移し、今の熊野神社になったという。大スギは、その当時植えられたものだと言い伝えられている。(入間市教育委員会掲示より)

熊野神社(藤沢)の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿