北野天神社。延喜式内社物部天神社の論社
北野天神社の概要
北野天神社は、所沢市小手指元町にある北野天神社です。北野天神社は、景行天皇40年日本武尊東夷征伐の際に建立した物部天神社(延喜式内社)に比定され、さらに国渭地祇神社、出雲祝神社の延喜式内社3社を併せ祀っているといいます。欽明天皇12年には武蔵野小手指原の霊神及び日本武尊を合祭、長徳元年(995)には、菅原道真の子孫・武蔵国司菅原修成が京都北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称して祀るようになったといいます。その後戦火により衰廃したものの、天正19年(1591)に前田利家が再興、徳川家康より社領8石の御朱印状を拝領、慶安2年(1649)には社領50石へ加増されたといいます。明治5年郷社に、明治34年には県社に列格、大正元年九月に富岡村の小手指神社と稲荷神社を合祀しています。
社号 | 物部天神社国渭地祗神社天満天神社 |
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祭神 | 櫛玉饒速日命(物部天神社)、八千矛命(国渭地祇神社)、菅原道真公(天満天神社) |
相殿 | - |
境内社 | 諸神宮、文子神社、石宮神社、八雲神社、稲荷神社、小手指神社 |
祭日 | - |
住所 | 所沢市小手指元町3-28-44 |
備考 | - |
北野天神社の由緒
北野天神社は、景行天皇40年日本武尊東夷征伐の際に建立した物部天神社(延喜式内社)に比定され、さらに国渭地祇神社、出雲祝神社の延喜式内社3社を併せ祀っているといいます。欽明天皇12年には武蔵野小手指原の霊神及び日本武尊を合祭、長徳元年(995)には、菅原道真の子孫・武蔵国司菅原修成が京都北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称して祀るようになったといいます。その後戦火により衰廃したものの、天正19年(1591)に前田利家が再興、徳川家康より社領8石の御朱印状を拝領、慶安2年(1649)には社領50石へ加増されたといいます。明治5年郷社に、明治34年には県社に列格、大正元年九月に富岡村の小手指神社と稲荷神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による北野天神社の由緒
(北野村)天神社
これ神名帳に載たる物部天神の社にして、祭神は饒速日命なりと云、今は北野天神・小手指明神の二座を合せ祀れり、又式内の神國渭地祇社・出雲祝神社をも合せ祀ると云、縁起の大略に云、當所式内三座の神社は、景行天皇四十年日本武尊の天神・地祇・剱義神を祀り給へるなり、其帶せられし草薙の御剱は、元出雲國八岐の大蛇の尾より出たる剱なり、是を移し祭り給ふ故出雲祝
神社と云、又欽明天皇の御宇、十二年十一月十五日武蔵野小手指原の霊神、幷日本武尊を合祭し、小手指大明神と崇む、一條院の御宇、菅丞相五世の孫、菅原の修成武蔵國守の時、菅公の霊夢の告により、長徳元年二月廿五日勅許を蒙り、京北野天神を關東に移し給ひ、坂東第一北野天神と號す、其後源頼義・義家父子奥州の朝敵追罰の宿願によりて、總社建立あり、又建久六乙宇年九月十五日正八幡一宇を勧請あり、此時本宮九社とも修造ありて、式内の諸神勧請諸神宮と號し、社領二百貫の地を寄附せり、舊領を合せて二千二百貫文なり、然るに建武・延元の戦争に社地儘く兵火にかかれり、延文元年丙甲に至り、将軍尊氏又諸社建立ありしが、應仁元年に及び天下又大に亂て社頭再び烏有となり、年久しく廃社となりしが、天正十八年小田原陣の後、加賀利家再興して、菅公真蹟の経文及び宗近の太刀に黄金を添て寄附せしと云々、以上の説信ずべからざるもの多し、ことに式社の三座を合祀すと云こと最疑ふべし。
恐らくは後世近郷にありし式社の廃絶せしを、神職のはからひにちぇ合せてここに祀りしならん、又村名を北野と呼び、且應永四年左兵衛督源某と云し人より下せし文書に、北野宮のこと先例の如く、沙汰すべき由をのせ、及び天文・弘治以下の文書にもみな北野宮と記しあれば、かの地主物部天神は古より祀りたらんか、北野天神を勧請せし後は、式社の名はかへりて、唱へざりしことは見えたり、今の社領御寄附の御朱印の文にも、北野天神領五十石としるされたり。
神輿堂。本社に向て左にあり。
神楽殿。社前にあり。
諸神社。本社に向て左にあり、縁起に建久六年九月、式内の諸神勧請諸神宮と號すと云もの是なりと、されば國渭地祇社・出雲祝神社等をここに移せしは、建久後のことにして、景行天皇の御宇式内三座を當所に祭れりと、まへに見えたるはいよいよ信ずべからず。
梅。社前にあり、圍み一圍許、天正十八年加賀大納言利家當社を再興して、新願所と定めし時、庭前に梅を一本植ゆ、ゆりて大納言梅と稱す。
櫻。これも社前にあり、日本武尊式社勧請の頃、我給ひしにより、尊櫻と稱せりなどいへど、今もやうやく二圍半に過ざれば、當時のものともおもはれず、近き比所澤の名主、碑を立て歌などを刻し、尊の由緒あることを詠ぜり。
末社。祖神社、稲荷社、諏訪社、浅間社、日宮、月宮、以上は本社の西に並びてあり。春宮、五行宮、風祭宮、雨請宮、山神宮、若宮八幡宮、子持宮、子安宮、以上は本社の後に並べり、縁起を閲るに雨請・山神二社の間に日請の一社をのす、これはのちに廃せしと見えて今はなし。
疱瘡神社、五穀社、疫神社、結明神社、石神社、秡所社、文子社、以上は本社の東にあり。
神職栗原左衛門。南大門の傍にあり、其家系を詳にせざれど、小田原陣の比の文書に神職栗原伊賀守とあれば、北條分國の比は巳に左衛門が先祖神主たりしこと見ゆれど、この前はいつの比より司ると云ことをしらず、縁起に據に大宮司は、天児屋根命十六代大中臣朝臣今麻呂長男、多美丸七台大宮司上毛野元重が時、領地二千貫文を賜はりてありしが、後鳥羽院の御宇建久六年九月十九日、社領二百貫文の地を寄附すといへり、此によれば栗原は大宮司が子孫といへるにや、恐らくは大宮司の子孫は断て、其後別に神職となりて、相續するなるべし、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による北野天神社の由緒
物部天神社/国渭地祇神社/天満天神社<所沢市北野七〇〇-三(北野字吉野)>
狭山丘陵を背に小手指原を望む小高い丘の上に鎮座する当社は、北野天神社の名で広く知られており、杉・檜などの老木が生い茂る境内には、古社の面持ちが感じられる。社名は、正式には物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社であるが、この三社を合殿に祀るところから総称として、北野天神社と呼ばれている。
鎮座地北野の地内には、当社を中心として、集落跡などの遺跡が数多くあり、その年代も、古いものでは先土器時代にまで及ぶ。また、『太平記』の武蔵野合戦の条にも描かれている正平七年の小手指ヶ原の戦で新田武蔵守義宗が陣を構え、白旗を立てたことから白旗塚と通称されるひときわ大きい円墳をはじめ、数基の古墳も残っている。こうした鎮座地の土地の歴史の古さは、同時に当社創建の古さを物語るものと言えよう。
江戸時代に著された社記『坂東第一北野宮略縁起』によれば、当社創建にまつわる次のような伝説が語られている。
(前略)景行天皇の皇子日本武尊東夷征罸の時、武野のに入て諸軍大に渇つし井を掘せらるゝに水なし今の堀兼の井是なり 時に老翁来て尊を当所へ導たてまつり井を掘清泉をえて諸軍の労をすくひ給ふ(中略)尊天神地祇釼の義神を祭給へは東夷戦ずして自伏し奉る是則 物部天神国渭地祇社出雲祝神社景行四十庚戌年日本武尊一時三箇之勧請延喜式内入間郡三座の神社也(中略)同四十一年辛亥正月十七日里人あつまりて木石を集め祝て弓を射馬を乗八町四方の地に三社建立し今に至て正月十七日奉射の祭祀とて執行有二月廿一日遷宮毎年二月廿一日大神事連綿たり(以下略)
当社は、この伝説に語られる三座の式内社のうち、物部天神社であるとされ、さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀しているといわれている。
長徳元年には、菅公五代の子孫・武蔵国司菅原修成が京都より北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称して祀るようになったことから、当郷の名も北野と改められた。その後、戦乱のために、幾度か社殿は鳥有に帰したが、源頼朝や足利尊氏など、当代の将軍によって再営がなされた。
天正十九年二月、前田利家が霊夢により再び京都より北野天神を勧請した。これが当社の中興であり、同年一一月には徳川家康より朱印地八石の寄進も受けている。更に慶安二年には家光により社領は五〇石に加増され、当社は繁栄を極めることとなる。また、享保七年の四月一日から六月一日まで目白の不動院において江戸開帳を行い、その名を広めた。
明治五年の社格制定に際しては、古社であるところから郷社となったが、更に、同三四年三月には県社に昇格した。大正元年九月に富岡村大字北中より、小手指神社と稲荷神社を合祀した。
祭神については、諸説があるが、古くから「北野天神九座」と称し、全部で九柱の神を祀るとされ、主祭神を櫛玉饒速日命(物部天神社)・八千矛命(国渭地祇神社)・菅原道真公(天満天神社)とするものが多い。
当社の拝殿は入母屋造りであるが、他に類を見ない、極めて簡潔な造りであり、その裏手の一段高くなっているところに三間社流造りの本殿がある。棟札によれば、拝殿・本殿とも安永七年に建立されたもので、その後しばしば修理が行われている。(「埼玉の神社」より)
北野天神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)