羽黒神社(加佐志)。狭山市加佐志の神社

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羽黒神社(加佐志)。奥州羽黒山麓に帰農した武士が当地へ移住

羽黒神社(加佐志)の概要

羽黒神社(加佐志)は、狭山市加佐志にある羽黒神社(加佐志)です。羽黒神社(加佐志)の創建年代等は不詳ながら、300年ほど前の江戸期に、奥州羽黒山麓に帰農した武士伴蔵人平一俊が、羽黒山の神である稲倉魂命の霊夢により、当地に移住、開拓して羽黒神社を祀ったともいいます。明治42年堀兼神社に合祀されたものの、終戦後に再興、字本開の神明社を合祀しています。

羽黒神社(加佐志)
羽黒神社(加佐志)の概要
社号 羽黒神社
祭神 -
相殿 -
境内社 -
住所 狭山市加佐志174
祭日 -
備考 -



羽黒神社(加佐志)の由緒

羽黒神社(加佐志)の創建年代等は不詳ながら、300年ほど前の江戸期に、奥州羽黒山麓に帰農した武士伴蔵人平一俊が、羽黒山の神である稲倉魂命の霊夢により、当地に移住、開拓して羽黒神社を祀ったともいいます。明治42年堀兼神社に合祀されたものの、終戦後に再興、字本開の神明社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による羽黒神社(加佐志)の由緒

(加佐志村)
羽黒社
村の鎮守なり、應永年中の勧請といへど、たしかなる傳へなし、村内寶林寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による羽黒神社(加佐志)の由緒

羽黒神社(狭山市加佐志一七四)(加佐志字稲荷山)
加佐志の地名については、日本武尊東征の折、高台から剣を翳したことによるという伝説がある。当社は加佐志の稲倉神社とも呼ばれるが、これによるためか鎮座地を稲荷山と称している。
口碑によると、三〇〇年ほど前、奥州羽黒山麓に帰農した武士伴蔵人平一俊が、羽黒山の神である稲倉魂命の霊夢によりこの地に移り住んで産土神として羽黒神社を祀ったのが当社の創始であるという。
真言宗羽黒山恵日院峯林寺が別当寺となり、神仏分離まで務めていた。その後、峯林寺は廃寺となり、集会所として使用され、昭和五八年に至り、建て替えられている。
明治四二年、当社は浅間神社(現堀兼神社)へ合祀されることとなり、神体を移し、従来の社殿を遥拝所とし、神職持ちの畑と社の畑を売却して堀兼への持参金に充て、境内地は村の共有地となった。
戦後の宗教法人法の施行に伴い、掘兼神社の総代会において、旧氏子が堀兼神社の崇敬者としてとどまることと羽黒神社の祭りに堀兼神社の関係者を招待することを条件に羽黒神社の再興が合意され、昭和二五年二月一〇日に認可を受け、共有地であった境内地が羽黒神社へ寄附されるという形で再興されるに至った。
現在、再興後に合祀された字本開の神明社が本殿内に併せて祀られている。(「埼玉の神社」より)


羽黒神社(加佐志)の由緒

  • 羽黒神社菩提樹(市指定文化財)

羽黒神社菩提樹

当社菩提樹は中国産シナノキ科の落葉高木で幹周り約二・九メートル、高さ約二〇めーとる、樹齢はおよそ五五〇年と推定されます。
六、七月ごろ淡黄色の花をつけ芳香を放ち、葉は、円心甲地で裏面に星状毛が密生し、実は、ほぼ球状で長さ八ミリほどで灰褐色の毛が密生しています。
加佐志奥富家に所蔵されている「由緒書之事」という古文書によると、当社菩提樹は、「八幡太郎義家の家臣で大宅光任の子孫、伴蔵人一俊が山城国紀伊郡(現京都市伏見区・南区の一部)に閑居後、羽後国梁川(現山形県鶴岡市)の地に農民として土着したが、羽黒大権現の霊夢によってこの地に至り土地を拓いた。そして羽黒大権現を勧講し氏神となったとき神木として菩提樹を植えた」となっています。
ちなみに、菩提樹の我が国への渡来は、僧栄西が宋より帰国のさい、持参した苗を筑前国香椎宮に植えたのが最初であるといわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

羽黒神社(加佐志)の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿