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堀兼神社。狭山市堀兼の神社

堀兼神社の概要

堀兼神社は、狭山市堀兼にある神社です。堀兼神社の創建年代等は不詳ながら、丘陵地にある貴重な井戸(堀兼の井)とかかわるものと考えられ、平安末期には既に「堀兼の井」が広くしられていたことから、平安時代以前に祭られたのではないかと思われます。慶安3年(1650)には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立、承応年間(1652-1655)より始まった当地開発により、延宝3年(1675)に堀金村が成立、明治5年に村社に列格、明治40年から明治42年にかけて村内の神社十二社を合祀したといいます。

堀兼神社
堀兼神社の概要
社号 堀兼神社
祭神 木花咲耶姫命
相殿 大山咋命ほか五神
境内社 森稲荷社、八幡神社、霞神社
住所 狭山市堀兼2221
祭日 -
備考 旧村社、堀兼の井



堀兼神社の由緒

堀兼神社の創建年代等は不詳ながら、丘陵地にある貴重な井戸(堀兼の井)とかかわるものと考えられ、平安末期には既に「堀兼の井」が広くしられていたことから、平安時代以前に祭られたのではないかと思われます。慶安3年(1650)には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立、承応年間(1652-1655)より始まった当地開発により、延宝3年(1675)に堀金村が成立、明治5年に村社に列格、明治40年から明治42年にかけて村内の神社十二社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による堀兼神社の由緒

(堀金村)
淺間社
高二丈許なる塚上にあり、石階を設けて其下に仁王門及社守の庵を建つ。
別當心靜院
天台宗、河越城内高松院の末なり、井上山と號す、昔は慈雲菴とも稱せしと云。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による堀兼神社の由緒

堀兼神社(狭山市堀兼二二二一)(堀兼字富士見台)
社記によると、日本武尊東征の折、当地は大干であり、水を求めたが得られず、遥か西方にそびえる富士に祈ったところ、にわかに雲が湧き起こり、雨が降ったおかげで兵の渇きを救うことができたとも、また、里人も水の乏しきを嘆いていたため、井戸を掘ってこれを助け、傍らに浅間宮を祀ったともいう。この話から、当社の創始は、丘陵地にある貴重な井戸とかかわるものと考えられ、水を司る山の神、富士の信仰と相まって行われたものと思われる。
堀兼村の成立は、『風土記稿』に、初め、当地は広漠たる原野であったが、承応年間に開墾し、延宝三年の検地に際し立村したとある。村名の掘兼の由来は、当地が武蔵野の広野にあって水に乏しく、井戸も掘り兼ねる所であったためで、平安期の歌人藤原俊成の歌に「武蔵野の堀かねの井もあるものを、うれしや水の近づきにけり」がある。
慶安三年には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立している。これは、本殿裏手の石柱により確認できる。また、代々藩主の崇敬厚く、信綱の嗣子信輝は祭粢料として山林十余歩を除地として寄附し、これを村では浅間面と称した。次いで、秋元但馬守は天保一三年、境内に堀兼井の由緒を記した石碑を建立している。
明治に入り、神仏分離によって別当天台宗心静院から離れ、明治四〇年には近在の社を合祀し、社名浅間社を掘兼神社と改めた。(「埼玉の神社」より)

埼玉県・狭山市掲示による堀兼神社の由緒

堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、合祀神として大山咋命ほか五神を祀る。
社伝によると、景行天皇の四十年に日本武尊が東北のえぞ征伐の帰途この地に立ち寄ったところ、土地の人々が旱害に苦しんでいるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧きだした。そこで土地の人がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが始まりだという。
その後、江戸時代に至って慶安三年(一六五〇)、川越城主松平伊豆守信綱が深くこの神社を崇敬し、家臣の長谷川源衛門に命じて社殿を再建させた。
明治維新後は「堀兼浅間神社」と称していたが、明治五年に村社となり、同四十年から同四十二年にかけて村内の神社十二社を合祀し、社名を現在のものに改称した。
境内にある「堀兼の井」は武蔵野の高燥台地の飲料水井戸として古くから有名であり、県指定舊蹟。またバラモミは県の天然記念物に指定されている。
なお、堀兼神社の社叢は、昭和五十八年にふるさと埼玉の緑を守る条例に基づく「ふるさとの森」の指定を受けている。(埼玉県・狭山市掲示より)


堀兼神社所蔵の文化財

  • 随身門及び二神像(狭山市指定文化財)
  • 堀兼の井(埼玉県指定文化財)

随身門及び二神像

この随身門は市内唯一のもので、創建は不詳ですが、万延元年(一八六〇)に神像を塗替えたとする記録があるので、江戸時代後期には既に存在していたと考えられます。
建物は桁行六・八五メートル、梁行四・一二メートルで、単層入母屋造りの八脚門です。屋根は当初草葺でしたが、大正十四年に銅板葺に改造されました。その際に斗組と屋根化粧材は新材に替えましたが、柱、地覆、腰貫、頭貫、台輪、丸桁は当初材を伝えています。
随身とは、平安時代以降に上皇や貴族が外出するときに武装して警護にあたった人のことです。日本の神道においては、神を守る者として安置されており、随神とも書かれます。
この二神像は、向かって左側が豊磐間戸命・右側が奇(櫛)磐間戸命で、俗に矢大神、左大神と呼ばれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

堀兼神社の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿