中野原稲荷神社。入間市小谷田の神社
中野原稲荷神社の概要
中野原稲荷神社は、入間市小谷田にある中野原稲荷神社です。中野原稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に記載の「稲荷社三宇、村内薬王寺東光寺の持なり」とある稲荷社のうちの一社だといいます。また、名主様方が上京して、村の安泰のために、伏見稲荷から御神体を頂き、村の四ヵ所に祀ったという言い伝えや、「向稲荷神社、増田昌已家の屋敷にある牛沢稲荷神社、三区で祀っている霞川稲荷神社と当社を合わせて″四方稲荷″と呼ぶという」とあり、澁澤・增田・吉田・桑田の四家が開基となった東光寺は印融(永正6年1509年寂)が開山していることから、江戸期の創建が推測されます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 蒼稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲神社、護国神社 |
祭日 | 例大祭5月5日 |
住所 | 入間市小谷田1-1-5 |
備考 | - |
中野原稲荷神社の由緒
中野原稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に記載の「稲荷社三宇、村内薬王寺東光寺の持なり」とある稲荷社のうちの一社だといいます。また、名主様方が上京して、村の安泰のために、伏見稲荷から御神体を頂き、村の四ヵ所に祀ったという言い伝えや、「向稲荷神社、増田昌已家の屋敷にある牛沢稲荷神社、三区で祀っている霞川稲荷神社と当社を合わせて″四方稲荷″と呼ぶという」とあり、澁澤・增田・吉田・桑田の四家が開基となった東光寺は印融(永正6年1509年寂)が開山していることから、江戸期の創建が推測されます。
新編武蔵風土記稿による中野原稲荷神社の由緒
(小谷田村附新田)
稲荷社三宇
村内薬王寺東光寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による中野原稲荷神社の由緒
中野原稲荷神社<入間市小谷田一-一(小谷田字中野原)>
当地は加治丘陵から武蔵野台地に広がる起伏のある地で、南を流れる霞川に沿って民家があり、当社はそれらを見守る高台に鎮座する。
『風土記稿』に「稲荷社三宇村内薬王寺東光寺の持なり」とあり、社蔵の伏見稲荷神社別当愛染寺の勧遷証書「正一位稲荷大明神 右今般依願望令授与之条仍而如件 日本稲荷総本山愛染寺 酉九月吉辰 武州入間郡小谷田村東光寺殿」がある。
昔、名主様方が上京して、村の安泰のために、伏見稲荷から御神体を頂き、村の四ヵ所に祀ったといわれ、また、伏見からの帰りに、御神体を担いでいた人が三島で女郎屋に上がり、神体を汚したと大騒ぎをしたという逸話が残っている。
社蔵文書に「正一位稲荷大明神安鎮之㕝・右雖㕝本宮之奥秘依格別之願望畧式修封之厳璽令授与焉、祭祀慎之莫㕝也、安政二年五月吉辰、城州紀伊郡稲荷本宮、正四位陸奥守□□□㊞・武州小谷田増田勘兵衛、勘左衛門殿」が残され、口碑に東光寺の飛び地にある田向稲荷神社、増田昌已家の屋敷にある牛沢稲荷神社、三区で祀っている霞川稲荷神社と当社を合わせて″四方稲荷″と呼ぶという。
このようなことから、当社は、別当を東光寺として祀っていた稲荷社に、改めて伏見稲荷神社から分霊を行い、正一位を請うたものと思われる。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による中野原稲荷神社の由緒
詳らかではないが聖武天皇の御代(七二五年頃)、京都伏見稲荷神社から分霊されたご神体を、祭られたものと伝えられる。
農耕の神・市を護り給う神・家内安全・商売繁昌・幸運の神・縁結びの神として、農家・商店・工場・芸能界の信仰も厚く、近郷はいうにおよばず、東京方面の講社の参拝も多い。(境内掲示より)
中野原稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿