八坂神社(仏子)。入間市仏子の神社
八坂神社(仏子)の概要
八坂神社(仏子)は、入間市仏子にある八坂神社(仏子)です。八坂神社(仏子)の創建年代等は不詳ながら、天王社と称して地区の鎮守として祀られていたといいます。明治五年社格制定令に伴い、仏子村内で祀られていた六社を諏訪山に合祀、規模の大きかった天王社を八坂神社と改称して村鎮守としたといいます。境内地を大きくするため、明治37年天王社の鎮座していた当地に遷座したといいます。
社号 | 八坂神社 |
---|---|
祭神 | 素盞鳴命 |
相殿 | 大己貴尊、櫛稲田姫尊 |
境内社 | 機神、稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 入間市仏子942 |
備考 | 旧村社 |
八坂神社(仏子)の由緒
八坂神社(仏子)の創建年代等は不詳ながら、天王社と称して地区の鎮守として祀られていたといいます。明治五年社格制定令に伴い、仏子村内で祀られていた六社を諏訪山に合祀、規模の大きかった天王社を八坂神社と改称して村鎮守としたといいます。境内地を大きくするため、明治37年天王社の鎮座していた当地に遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による八坂神社(仏子)の由緒
(佛子村)
白髭社
家忠社
第六天社
御靈社。金子伊豆守親範が靈を祭しと云、以上四社、村持なり。
—
諏訪社
當山修験、龍蔵寺持。
—
天王社
高正寺持、例祭は六月十四・十五の兩日にて、神輿を渡す、以上の六社、皆村中の鎮守たり。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による八坂神社(仏子)の由緒
八坂神社由来
八坂神社の主祀神は、素戔嗚尊である。
明治五年以前、仏子村には集落ごとに社が祀られていた。
上仏子に白髭神社[猿田彦命]
中島に家忠神社[大屋毘古命]
上野に諏訪神社[建御名方命]
上野原に天王社[牛頭天王]
下ヶ谷戸に御霊神社[早良親王]
上広瀬に第六天神社[惶根命・面足命]
が祭祀されていた。
明治五年社格制定令が発布され、これに伴い諏訪山に六社を合祀し、仏子村の村社とした。
その後明治三十七年に社を大きくするため、天王社があった現在地に移した。
明治四十一年十月三日社殿を建立、その後氏子の総意により、大正九年五月に起工、翌大正十年六月現在の社殿が竣工した。
大正十二年四月三日神饌幣帛料供進指定社となる。
由来碑前三本の石柱は合祀以前の社にあった石燈籠の寄進者名が彫られている文化財である。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による八坂神社(仏子)の由緒
八坂神社入間市仏子九四二(仏子字上野原)
当地に加治丘陵東部の北を流れる入間川の浸食によって形成された川岸段丘上に位置する。
『風土記稿』を見ると、地内には白髭社・家忠社・第六天社・御霊社・諏訪社・天王社の六社があり、「以上の六社、皆村中の鎮守なり」と記されており、当時は、集落ごとにそれぞれの鎮守として、これらの神社を奉斎していたものと思われる。
明治に入り、村社を定めるに当たって、前記の六社中で最も規模の大きかった天王社を八坂神社と改称の上、村社として仏子全体で祀るようになった。また、『明細帳』によれば、明治四一年一〇月三日には、白髭・諏訪・第六天の三社を合祀したことが知られる。また、残る家忠・御霊の二社も昭和の初めには既にその所在地すらわからない状態であったことから、この時期に一緒に合祀されたものであろう。
大正期に入ると、村社たるにふさわしく、仏子の中央に新しく境内を造成し、移転を行おうとの声が高まり、大正七年一二月二四日にその許可を受ける。その結果、同一二年四月一日、中島地区の字霞沢にあった旧境内から、新設された現在の境内へと移転が行われた。
本殿は一間社流造りで、主祭神は素盞鳴尊である。なお、境内地付近は、古来、天王山と呼ばれ、戦前は祭りに神輿が渡御していたが、現在は宅地化され、その跡を留めていない。(「埼玉の神社」より)
八坂神社(仏子)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿