圓光寺。狭山市指定文化財の銅造聖観世音菩薩立像
圓光寺の概要
真言宗智山派寺院の圓光寺は、高麗山地蔵院と号します。圓光寺は、学鍑法印が仁安3年(1168)に創建、一旦浄土真宗寺院となったものの、妙浄(享保元年寂)が中興開山して真言宗寺院に戻したといいます。本尊不動明王像や銅造聖観世音菩薩立像は元亀3年(1572)の造像、また康暦2年(1380)銘の古碑も残されているといいます。
山号 | 高麗山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 圓光寺 |
住所 | 狭山市柏原1027 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
圓光寺の縁起
圓光寺は、学鍑法印が仁安3年(1168)に創建、一旦浄土真宗寺院となったものの、妙浄(享保元年寂)が中興開山して真言宗寺院に戻したといいます。本尊不動明王像や銅造聖観世音菩薩立像は元亀3年(1572)の造像、また康暦2年(1380)銘の古碑も残されているといいます。
新編武蔵風土記稿による圓光寺の縁起
(柏原村)圓光寺
高麗山地蔵院と號す、新義眞言宗入間郡勝呂大智寺末なり、古刹なれど興廢あれば、開山の年代は知れず、一旦浄土新宗となりしを、中興開山妙浄と云る僧宗旨を復古して、享保元年十一月十五日寂す、本尊不動は坐像にて長一尺七寸、教行大師の作なり、又銅像の正観音の立像一軀あり長一尺三寸餘、その背に武州高麗郡柏原圓光寺、庚申供養敬白、大工神田とのみありて、其側に元亀三年壬申十二月吉日常連施主とえれり。
観音堂。如意輪観音を安ず。
稲荷社。鎮護神なり。
古碑一基。康暦に年三月廿六日[清流泉大師]左右には妙知衆生、本来成佛、生死涅槃、何如非夢と刻す、外に斷碑一基あり、元亀三年と刻せり。(新編武蔵風土記稿より)
境内石碑による圓光寺の縁起
仁安三年(一一六八)に法印学鍑が創立したと伝えられる。
平安時代末期で藤原氏にかかわって平氏の勢いが強くなり平清盛が太政大臣になった頃である。
新編武蔵風土記には本尊不動明王は教行大師作とし、別に背面に元亀三年(一五七二)の銘がある聖観音の銅像あり。また康暦二年(一三八〇)と刻んだ古碑もある。(境内石碑より)
圓光寺所蔵の文化財
- 銅造聖観世音菩薩立像(狭山市指定文化財)
銅造聖観世音菩薩立像
この像は、元亀三年(1572)に造られたものです。
像容は、低めに宝髻を結い通肩の法衣を着て、左手で未開蓮華を持ち、右手は胸まで上げて、すべての畏怖を除き衆生に安心を与えることを示す施無畏印をしています。火災により焼かれていますが、銅造のため少し黒くなった程度で、原初の形が保たれています。
背面の銘文によりますと、庚申供養のご本尊として、柏原の大工神田氏が鋳造したことがわかります。初期の庚申信仰を知るうえで、また、柏原に鋳物師が存在したことを証明するたいへん貴重な銅像です。
(背面陰刻銘)敬白大工神田 武刕高麗郡柏原 圓光寺庚申供養 元亀三年十二月吉日 常連 施主
このほかに、台座に七人の名前が陰刻されています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
圓光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿