西勝院。国分寺(最勝王院)に比定、狭山三十三観音霊場
西勝院の概要
真言宗豊山派寺院の西勝院は、宮寺山無量壽寺と号します。西勝院の創建年代等は不詳ながら、一説には、聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺(最勝王院)の一つではないかともいい、矢寺村に最勝王院と称していたといいます。後に加納下野守が当地(宮寺館跡)へ移転したといいます。狭山三十三観音霊場29番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所5番です。
山号 | 宮寺山 |
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院号 | 西勝院 |
寺号 | 無量壽寺 |
住所 | 入間市宮寺489 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西勝院の縁起
西勝院の創建年代等は不詳ながら、一説には、聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺(最勝王院)の一つではないかともいい、矢寺村に最勝王院と称していたといいます。後に加納下野守が当地(宮寺館跡)へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による西勝院の縁起
(荻原村)西勝院
宮寺山無量壽寺と號す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺末なり、中興開山智養元和五年十一月十五日寂す、相傳ふ此寺に昔宮寺西勝と云もの住すと、西勝がことは記録なければ知べからず、されど【東鑑】にも正嘉の頃の人に、宮寺蔵人政員など云人見えたれば、西勝も彼人の族などにやありけん、又傳ふ加納下野守と云者住せり、其頃までは當寺矢寺村の内に在しを、下野守が計ひにてここに移せしと云、本尊は薬師なり。
十王堂
(矢寺村)大御堂
本尊彌陀立像長四尺許、相傳ふ昔行基菩薩當國行脚の時、偶此地に宿して彫刻せし像なりと、元の額には大彌堂と題せしとぞ、此如何なる故にや、大なる彌陀の像と云ことか、又は彌陀を尊稱せしか、又古別に小御堂ありて大御堂と並べ稱せしとも云、今荻原村西勝院は往古此堂の地に建しとなり、故に今も此堂は西勝院の持なり、此西勝院往古は最勝王院と云しが、何の頃よりか省略し文字をも書替しと云按に古毎國一寺宛最勝王院を造立し紺紙金泥の最勝王経を書寫して納め置しことあい、然るに當國には、これ彼最勝王院の古迹なりと云こと語りも傳へず、若くは此所ならんと土人いへり、姑くそのままを記せり。 (新編武蔵風土記稿より)
西勝院所蔵の文化財
- 宮寺館跡(市指定史跡)
宮寺館跡
桓武天皇九代の孫、村山(平)頼任は、今から約九百年前、村山に住み武蔵七党の一つ村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心に大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府成立に大きな力となった。
村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。
すでに八百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側、東側の土塁と空堀また山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の堀であったと推測され、したがって内側に土塁が、構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に及んでいる。
鎌倉幕府滅亡(西暦一三三三年)時には加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代は伊能尾(狩尾)氏が住んだと伝えられている。(入間市教育委員会掲示より)
西勝院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿