豊泉寺。小田原北条氏の家臣豊泉左近将監が開基
豊泉寺の概要
曹洞宗寺院の豊泉寺は、松龍山と号します。豊泉寺は、小田原北条氏の家臣豊泉左近将監(天正3年1575年卒)が父母や将兵の菩提を弔うために開基となり天文元年(1532年)に創建、木蓮寺瑞泉院四世本室徳源禅師(文禄元年1593年寂)が開山したといいます。本堂裏手の庭園は、明治年間地元根岸の庭師水村藤四郎が造園したもので、本格的な禅宗式庭園だといいます。
山号 | 松龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 豊泉寺 |
住所 | 入間市中神681 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
豊泉寺の縁起
豊泉寺は、小田原北条氏の家臣豊泉左近将監(天正3年1575年卒)が父母や将兵の菩提を弔うために開基となり天文元年(1532年)に創建、木蓮寺瑞泉院四世本室徳源禅師(文禄元年1593年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による豊泉寺の縁起
(中神村)豊泉寺
曹洞宗、木蓮寺村瑞泉院の末、松龍山と號す、本尊虚空蔵を安置す、開山本室和尚文禄元年六月二十二日示寂、開基豊泉左近将監天正三年九月十二日卒す、法名豊泉院名山大譽居士の碑當寺にあり、寺の名は是より起りしなるべし、左近将監の事は小谷田村舊家者の條幷せ見るべし。
衆寮
白山社 (新編武蔵風土記稿より)
入間市掲示による豊泉寺の縁起
曹洞宗(禅宗)の寺院で、松龍山豊泉寺と称し、本尊に虚空蔵菩薩が安置してある。
創建は、戦国時代、天文元年(一、五三二年)と伝えられ、大字木蓮寺瑞泉院の四代目、本室徳源禅師を開山とし、開基は小田原北条氏の家臣豊泉左近将監である。豊泉左近将監は北条氏の命によって金子領の領主となり、関東争乱の際に戦場の露と消えさった父母を悼むとともに、将兵の戦没を深く悲嘆し、ここにその冥福を祈るため、この寺を建てたといわれる。
また、松龍山のいわれは、境内裏一帯が樹齢数百年の古松で龍のような形をしているため、その名を松龍山と唱え、寺名を豊泉寺と称したと伝えられている。
しかし、寛保、延享の時代に火災にあい、一切の古文書をはじめ、貴重な文化財も全部灰燼に帰し、史跡として今何も伝えられていない。
梵鐘は、寛文九年(一、六九九年)に造られたが、昭和十八年、太平洋戦争により供出された。現在の梵鐘は、昭和三十九年に再建されたもので、直径七十二センチメートル、重量四五〇キログラムである。
なお、境内には水村藤四郎作の庭園(市指定文化財)と昭和四十六年に建てた「狭山茶場碑」がある。
この碑は、安政四年(一、八五七年)儒者、佐藤一斎により撰文され、狭山茶の業再建の由来などが記されている。しかし、当時建碑に至らず、昭和四十六年になって金子地区有志によって建てられた。(入間市掲示より)
豊泉寺所蔵の文化財
- 豊泉寺の庭園(市指定名勝)
- 水村藤四郎(茶藤翁)の記念碑
- 狭山茶場碑(碑文は安政四年)
豊泉寺の庭園
中神の豊泉寺は曹洞宗に属し、開山は本室徳源和尚、開基は小田原北条氏の家臣といわれる豊泉左近将監と伝えられている。豊泉寺の庭園は本堂の裏側に造られた禅宗式庭園で、明治年間地元根岸の庭師水村藤四郎(一八二二〜一九〇二)によって造られたものである。水村藤四郎は父藤兵衛の後を継いで茶業に励み、茶の製法研究と品質向上に努め、根通り茶独特の”ちらしより”という技術を開発した。中年より造園業に転じ、東京に出て多くの造園に携わり腕を磨いたという。帰郷後も頼まれて作庭にあたり、現在も幾つかの庭園に面影を伝えている豊泉寺の庭園もその一つで造園当初よりは多少手が加えられているが基本的には変わっておらず、市内の本格的な禅宗式庭園として貴重である。
なお、境内東側には大正二年(一九一三)に建てられた水村藤四郎(茶藤翁)の記念碑と狭山茶場碑(碑文は安政四年)がある。(文化庁・埼玉県教育委員会・入間市教育委員会掲示より)
豊泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿