天岑寺。三ッ木村名主三木四郎左衛門草創、旗本小笠原安勝開基
天岑寺の概要
曹洞宗寺院の天岑寺は、天龍山と号します。天岑寺は、三ッ木村の名主三木四郎左衛門(天正17年1589年卒)が観音堂を一寺としたと伝えられ、その後当地を領有した旗本小笠原安勝が、文禄3年(1594)に父攝津守安元(法名天岑院徳翁紹恩)の墓を三河國養門寺から移して当寺を開基、天海盛呑(寛永4年1627年寂)が開山したといいます。
山号 | 天龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 天岑寺 |
住所 | 狭山市沢5-34 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天岑寺の縁起
天岑寺は、三ッ木村の名主三木四郎左衛門(天正17年1589年卒)が観音堂を一寺としたと伝えられ、その後当地を領有した旗本小笠原安勝が、文禄3年(1594)に父攝津守安元(法名天岑院徳翁紹恩)の墓を三河國養門寺から移して当寺を開基、天海盛呑(寛永4年1627年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による天岑寺の縁起
(入間川村之内澤村)天岑寺
曹洞宗、多磨郡滝山村少林寺末、天龍山と號す、當寺の来由を尋るに、元此地に観音堂ありしを、三ッ木村の百姓四郎左衛門と云もの一寺とせしといへど、其頃の寺號は傳へず、四郎左衛門は天正十七年二月朔日死せし人なりと云へば、年代推てしるべし、開山は天海盛呑と云僧にて、寛永四年六月十六日寂す、文禄三年の頃地頭小笠原太郎左衛門安勝、其父攝津守安元が墓を三河國養門寺より當寺境内へ引移し、寺領を寄附し再興して世々の檀越となれり、安元が法名を天岑院徳翁紹恩と云、故に寺號をも改めて法謚の字を用ひしといふ、本尊は釋迦を安置せり。
鐘楼。鐘は寶永五年の銘なり。
衆寮。彌陀・大日の二像を安ず。
三社権現社、金毘羅社。(新編武蔵風土記稿より)
天岑寺所蔵の文化財
- 天岑寺惣門(狭山市指定文化財)
- 天岑寺月待供養の碑(狭山市指定文化財)
天岑寺惣門
惣門とは、一般的には外構えの大きな門のことであり、特に禅寺の表門のことをいいます。
天岑寺惣門の創建時期は記録が残っておらず正確な年代は不明ですが、文禄三年(一五九四)に当地方の旗本小笠原安勝が天岑寺を開基し、安勝が寛永十八年(一六四一)に没した際の法要では、朱塗りの華麗な七堂伽藍があったといわれているので、惣門はその間に造られたと推定されます。
明治三年(一八七〇)一二月八日の夜に発生した火災により七堂伽藍の多くを焼失してしまいましたが、この惣門は難を逃れ、創建当時の状態を残しています。
沖縄風の特殊な形、様式をもち、表間口三・六四メートル、奥行三メートルの四脚門、二枚大扉、大柱、大桁で重量感があり、高さ二メートルの屋根は切妻で中央が一段高く「通霄関」という遍額があり、総檜材で彫刻等唐風の趣があります。
県下でも珍しい様式をもち、表裏の趣を異にする風姿の特殊な建造物で貴重なものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
天岑寺月待供養の碑
天岑寺月待供養の碑は、板碑の一種で、幅三十九センチメートル、高さ百二十九センチメートルで板碑としては大きい部類に入ります。板碑とは、一般庶民の間に仏教がひろめられ供養行事が盛んになった中世にかけて死者追善、生前の逆修供養のため多く造立されたもので、その中でも秩父青石(緑泥片岩)で作ったものを青石塔婆といい、上部に種子が下部に仏像などが刻まれています。
「月待」とは月の出を待つ行事で、この夜に講員は特定の宿に集まって飲食を共にし、さまざまな話し合いをしたといいます。この行事は月天を祝い延命長寿、無事息災を願って十三夜、十七夜、二十三夜などに行われ(特に月待供養日といえば一般的に二十三日をさす)、本尊は勢至菩薩(阿弥陀仏の右脇上にあって智恵の源泉とされる)で、文明年間(一四六九~八六)前後が起源とされています。
本碑には数多くの文字が刻まれていますが、「月待供養 文明十四年 八月廿三日」等の文字が読み取れます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
天岑寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿