高倉寺。国重要文化財の観音堂
高倉寺の概要
曹洞宗寺院の高倉寺は、光昌山と号します。高倉寺は、室町時代初期に観音堂として創始、能仁寺第三世材室天良禅師(天正18年1590年寂)が開山したといいます。境内の観音堂は、第五世白翁亮清が延享元年(1744)に飯能市白子の長念寺より譲り受けたもので、現在国重要文化財に指定されています。
山号 | 光昌山 |
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院号 | - |
寺号 | 高倉寺 |
住所 | 入間市高倉3-3-4 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高倉寺の縁起
高倉寺は、室町時代初期に観音堂として創始、能仁寺第三世材室天良禅師(天正18年1590年寂)が開山したといいます。境内の観音堂は、第五世白翁亮清が延享元年(1744)に飯能市白子の長念寺より譲り受けたもので、現在国重要文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による高倉寺の縁起
(高倉村附新田)高倉寺
洞派の禅宗、高麗郡中山村能仁寺の末、光昌山と號す、本堂の軒に享保二年の銘を彫たる撞鐘をかく、開山は能仁寺三世財室天良、天正十八年十一月十七日示寂、本尊彌陀を安ぜり。
観音堂。相傳ふ此堂は昔し故あつて新座郡白子村より引来りし由、且飛騨の内匠が作れる堂にて、鳥の巣或は蜘の糸を張ことなしと云へり、本尊十一面観音を安ぜり。
白山社。
馬鳴堂。蠶の守護神なり。 (新編武蔵風土記稿より)
入間市掲示による高倉寺の縁起
曹洞宗の寺院で光昌山高倉寺と称し、建立されたのは天正年間(一、五七〇年代)のはじめと推定される。
開山は飯能市の能仁寺第三世材室天良禅師である。
ここには国指定重要文化財(昭和二十四年指定)の観音堂がある。
この御堂は、もと飯能市白子の長念寺に建てられてあったものを、延享元年(一、七四四年)高倉寺の第五世白翁亮清がもらいうけ、修理を加え移築したもので、創建は、室町時代初期と推定される。
この建築には、方三間、一重、入母屋造、屋根は茅葺形銅板葺、粽を有する円柱、両肩の張る花頭窓、桟唐戸、組物など随所に禅宗様式がとり入れられており、本県を代表する優れた古建築の一つである。
また、観音堂内には、中村芝翫(のちの四代目中村歌右衛門)の「九変化」の扁額が保存されている。これは、鳥居派五代目清満の作と伝えられており、江戸の小高亀吉が江戸時代に奉納したもので、演劇史上、貴重な資料となっている。(入間市掲示より)
高倉寺所蔵の文化財
- 高倉寺観音堂付棟札一枚(国指定重要文化財)
高倉寺観音堂付棟札一枚
高倉寺は、曹洞宗に属し、山号を光昌山という。観音堂は、室町時代初期に建立されたと推定される。棟札によれば、もとは飯能市白子の長念寺観音堂であったが延享元年(一七四四)高倉寺の第五世白翁亮清が譲り受けて移築したものである。その後昭和二十六年に修復が行われた。
観音堂の平面形態は方三間で、周囲に縁を持つ。正面の産間と側面の手前市間を桟唐戸とし、内法貫上には弓形の欄間を設け、側面の中央一間に花頭窓を配している。柱は粽柱で、軒は一軒扇垂木としている。屋根は長刀反をもつ入母屋造で建立当時は茅葺であったが、現在は茅葺様銅板葺に改められている。関東地方における禅宗様式の代表的な建造物の一つである。
また、堂内の本尊背後におかれている鉄製灯篭は室町期に流行した形式を伝えている。(文化庁・埼玉県教育委員会・入間市教育委員会掲示より)
高倉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿