観正院。草加市弁天にある真言宗豊山派寺院

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観正院。武蔵国八十八ヶ所霊場

観正院の概要

真言宗豊山派寺院の観正院は、恵光山と号します。観正院は、法印俊賢が慶長10年(1605)に恵日山妙音院東照寺と称して開山、元和3年(1617)寺号を東正寺と改号したといいます。明治41年光明山阿弥陀院観音寺を合寺、恵光山観正院と改号したといいます。武蔵国八十八ヶ所霊場8、10番です。

観正院
観正院の概要
山号 恵光山
院号 観正院
寺号 -
本尊 釈迦如来像
住所 草加市弁天6-7-24
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



観正院の縁起

観正院は、法印俊賢が慶長10年(1605)に恵日山妙音院東照寺と称して開山、元和3年(1617)寺号を東正寺と改号したといいます。明治41年光明山阿弥陀院観音寺を合寺、恵光山観正院と改号したといいます。

新編武蔵風土記稿による観正院の縁起

(篠葉村)東正寺
新義真言宗、埼玉郡柿木村東漸寺門徒、恵日山と號す、本尊釈迦を安ず。
辨天社。村の鎮守なり
(槐戸村)
観音寺
新義真言宗、埼玉郡柿木村東漸寺末、光明山阿弥陀院と號す、本尊正観音は行基の作なり
閻魔堂。観音寺持(新編武蔵風土記稿より)

草加市教育委員会掲示による観正院の縁起

観正院は、新義真言宗豊山派に属する寺で、民を日の如く恵み光り照らし給うことを願い、山号を恵日山、院号を妙音院、寺号を東照寺と称し、慶長十年(一六〇五)法印俊賢の開山と伝えられている。
元和三年(一六一七)徳川家康が、東照大権と称されたことにより、東正寺と改称した。
その後、明治四十一年槐戸村(現八幡町)所在の光明山阿弥陀院観音寺と合併、二ヵ寺の山号、寺号の各一字をとり、恵光山観正院と称し、観音寺本尊を当寺に遷座安置したものである。
境内には、草加市指定文化財の寛文二年(一六六二)の地蔵(庚申)立像、延宝六年(一六七八)の地蔵(庚申)立像の二体が安置されている。(草加市教育委員会掲示より)

観正院所蔵の文化財

  • 寛文二年(一六六二)地蔵(庚申)立像、延宝六年(一六七八)地蔵(庚申)立像

寛文二年(一六六二)地蔵(庚申)立像、延宝六年(一六七八)地蔵(庚申)立像

地蔵は六道を遊化して衆生を救済する菩薩であるが、のちに閻魔王の信仰と結びついて、その本地仏とされ、極楽往生を助けると信じられて、室町期には宗派に関係なく広く民間にひとまった。近世になると、火防・盗難除け・病気平癒・子育て等あらゆる庶民の願望を叶えてくれる仏として信仰され、地蔵像が造立されるようになった。
寛文二年(西暦一六六二年)の地蔵は、高さ九十五センチ、幅三十七センチ、厚さ二十六センチの丸彫り型で、頭部は後補のものであるかも知れず、宝珠を持った左手も損傷している。右腕の衣には、申供養寛文二年(西暦一六六二年)九月吉日、その右に宗清と彫ってある。この地蔵(庚申)立像は類例の少ない三例のうちの一例で、市内で最も古いものである。
延宝六年(西暦一六七八年)の地蔵は、高さ百四十二センチ、幅五十八センチ、厚さ三十二センチの光背型立像である。上部に(地蔵)の種字を彫り、向かって右に奉造立庚申供養二世安楽攸、左に延宝六戌午(西暦一六七八年)正月吉日篠葉村同行卅七人敬白とある。三十七人の結衆が、それぞれ庚申供養のために造立したものであることが理解できる。
この地蔵像は市内で二番目に古く、像容がすぐれている。(草加市教育委員会掲示より)


観正院の周辺図