五社神社。南埼玉郡宮代町東の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

五社神社。埼玉県有形文化財指定の五間社流造り本殿

五社神社の概要

五社神社は、南埼玉郡宮代町東にある神社です。五社神社は、西光院を創建した行基菩薩が、境内に寺の鎮守として養老年中(717-724)に創建したと伝えられ、現在の五間社流造り本殿は文禄・慶長年間(1592-1614)の建築と推定されています。五間社流造り本殿は昭和37年に埼玉県有形文化財に指定されています。

五社神社
五社神社の概要
社号 五社神社
祭神 天之忍穂耳命・天津日子根命・天津穂野日命・活津日子根命・久須毘命
相殿 -
境内社 稲荷、天満宮、三峰、浅間大神、小柳長、第六天、浅間神社、大杉大明神、藤原大権現
祭日 越年祭2月14日、祭礼7月16日、お日待10月19日
住所 南埼玉郡宮代町東90
備考 -



五社神社の由緒

五社神社は、西光院を創建した行基菩薩が、境内に寺の鎮守として養老年中(717-724)に創建したと伝えられ、現在の五間社流造り本殿は文禄・慶長年間(1592-1614)の建築と推定されています。五間社流造り本殿は昭和37年に埼玉県有形文化財に指定されています。

宮代町掲示による五社神社の由緒

五社神社
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間、隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向拝をつけ、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間にカヤ葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆神藤原吉重の作である。
拝殿前には文政三年(一八二〇)に建立された当地の俳人中野南枝の句碑があり、拝殿内の正面にも同時期の俳句絵馬が奉納されている。
なお、本殿は、昭和三十七年県指定の文化財となっている。(宮代町掲示より)

新編武蔵風土記稿による五社神社の由緒

(東村西光院内)
五社權現社。祭神は熊野三山・山王・白山なり、
雷電社。昔此社に掛たる古鰐口を蔵す、其圖上の如し、
天神社
淺間社
辨天社
聖天社
三峰社
稲荷社
金比羅社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による五社神社の由緒

五社神社<宮代町東九〇(百間村字東)>
当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄八年(一六九五)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称したこともあった。
創建については、元様十二年(一六九九)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次のようなことが記されている。
養老年中(七一七~七二四)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も著しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄八年に拝殿を増築し次いで他の社殿の改修を発願して、広く寄進を求めたものである。
口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和三十七年に県指定文化財となった。(「埼玉の神社」より)


五社神社所蔵の文化財

  • 五間社流造り本殿(埼玉県指定文化財)

五社神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)