田黒日枝神社。小倉城主遠山右衛門太夫藤原光景の守護神として勧請
田黒日枝神社の概要
田黒日枝神社は、比企郡ときがわ町田黒にある神社です。田黒日枝神社の創建年代等は不詳ながら、小倉城主遠山右衛門太夫藤原光景の守護神として、元亀元年(1570)に近江国日吉大社を勧請して創建したと伝えられます。江戸期には田黒村の鎮守として祀られ、大福寺が別当を勤めていました。大正3年雷電神社を合祀、翌4年に小倉城跡に鎮座していた熊野神社を合祀、合祀に際して熊野神社社殿を当地へ移築したといいます。
社号 | 日枝神社 |
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祭神 | 大山咋命 |
相殿 | - |
境内社 | 猿田彦・庚申・亀石 |
祭日 | 春祭り3月26日、例大祭10月11日 |
住所 | 比企郡ときがわ町田黒1199 |
備考 | - |
田黒日枝神社の由緒
田黒日枝神社の創建年代等は不詳ながら、小倉城主遠山右衛門太夫藤原光景の守護神として、元亀元年(1570)に近江国日吉大社を勧請して創建したと伝えられます。江戸期には田黒村の鎮守として祀られ、大福寺が別当を勤めていました。大正3年雷電神社を合祀、翌4年に小倉城跡に鎮座していた熊野神社を合祀、合祀に際して熊野神社社殿を当地へ移築したといいます。
新編武蔵風土記稿による田黒日枝神社の由緒
(田黒村)
熊野社
慶安二年社領として、五石六斗の御朱印を附せらる、
別當大福寺
天台宗、下青鳥村浄光寺の末、延命山地蔵院と號す、開山の僧を賢仙と云、示寂の年代を失ふ、本尊地蔵を安ず、
地蔵堂
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山王社
村の鎮守なり、大福寺持 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による田黒日枝神社の由緒
日枝神社<玉川村田黒一一九九(田黒字山王山)>
当地は槻川が大きく蛇行し、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている。東側の段丘に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが当社である。丘陵上の小倉城跡は、戦国期の山城で遠山右衛門太夫藤原光景の居城と伝える。遠山氏は、後北条氏に仕え小倉城の初代直親は兄の康景が永禄七年(一五六四)に討死したため跡を継いで江戸城主となり、小倉城は子の光景に譲った。しかし、豊臣秀吉の小田原城攻略の折、松山城と共に落城した。『風土記稿』田黒村の項に「光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(一五八七)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元亀・天正の頃なるベし」と記されている。
社伝によれば、当社は光景の守護神として元亀元年(一五七〇)に近江国の日吉山王大権現の分霊を勧請したとされる。『風土記稿』「山王社村の鎮守なり、大福寺持」とあり、化政期(一八〇四-三〇)には村鎮守となっていた。別当の大福寺は城の南裾にある天台宗の寺院で、下青鳥村浄光寺の末寺であった。開山の賢仙は、示寂の年代を伝えておらず、草創年代は不明である。
明治初年に現社号に改めた。大正三年四月に雷電神社を合祀、次いで翌四年一月には城跡に鎮座していた熊野神社を合祀した。その際、当社の本殿が老朽化していたので、熊野社の社殿を移築した。(「埼玉の神社」より)
田黒日枝神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)