光明寺。寺領5石5斗の御朱印状
光明寺の概要
真言宗智山派寺院の光明寺は、音無山と号します。光明寺の創建年代等は不詳ながら、栄道大和尚が開山したと伝えられ、その後伝燈大阿闍梨慶栄和尚が永禄3年(1560)に中興したといいます。豊臣秀吉による小田原攻めに際し、天正18年(1590)前田利家より禁制が当寺に発給され、慶安2年(1649)には寺領5石5斗の御朱印状を江戸幕府より受領していました。武州八十八所霊場22番です。
山号 | 音無山 |
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院号 | - |
寺号 | 光明寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 比企郡ときがわ町玉川3017 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光明寺の縁起
光明寺の創建年代等は不詳ながら、栄道大和尚が開山したと伝えられ、その後伝燈大阿闍梨慶栄和尚が永禄3年(1560)に中興したといいます。豊臣秀吉による小田原攻めに際し、天正18年(1590)前田利家より禁制が当寺に発給され、慶安2年(1649)には寺領5石5斗の御朱印状を江戸幕府より受領していました。
境内掲示による光明寺の縁起
音無山光明寺
当山は永禄三年(千五百六十年)伝燈大阿闍梨慶栄和尚の中興なれど、開山は栄道大和尚と云われしも年代不詳、而し本尊不動明王は弘法大師の作と伝えられ、庭には弘法大師杖跡と云われしお加持水、注いでは金剛界大日如来の種子を象りし梵字の池薬師堂南に瑠璃之池とそれぞれの水絶える事無く、産後の諸病治癒にその効灼なり、尚参道中端六地蔵尊中央六面地蔵尊は寛文十一年建立近在稀也、又古文書は天正十八年前田利家の制札、慶安二年三代将軍家光以降の御朱印状等、弘法大師縁の寺に相応しき史跡等一つ一つ証されるにあたり、本堂建立を期に法燈たゆる事無く、同行二人供養と礼拝の報恩行に努め乃至法界平等利益を誓願す。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による光明寺の縁起
(玉川郷)
光明寺
新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、音無山と號す、慶安二年寺領五石五斗の御朱印を賜ふ、本尊不動は長一尺七寸許脇士あり、又傍に薬師の像を安ず、共に弘法大師の作なり、開山を榮道と云、示寂の年代詳ならず、天正十八年前田利家が出せし制札を蔵す、其文左の如し
武蔵國妙覺郷光明寺
禁制
一當手軍勢甲乙人等濫妨狼藉事
一放火事
一對地下人百姓等非分之儀申懸事
右條々堅令停止訖、若於違犯之族者、勿可被處嚴科候旨、依仰執達如件、
天正十八年五月日 筑前守印(新編武蔵風土記稿より)
光明寺所蔵の文化財
- 前田利家禁制(ときがわ町指定文化財)
前田利家禁制
戦国時代末期、豊臣秀吉の小田原北条攻めに際し、その臣前田利家は北国軍として、群馬県碓氷峠越えで関東に進入し北条方の支城を攻略して行きました。この禁制は、天正十八年(一五九〇)五月前田利家が北条方のこの地方の拠点松山城攻めに際し光明寺に対して下したものです。内容は、治安の維持回復のために乱暴や放火を禁じたものです。(ときがわ町教育委員会掲示より)
光明寺の周辺図