三ヶ島稲荷神社。元湯殿社のあった当地へ遷座
三ヶ島稲荷神社の概要
三ヶ島稲荷神社は、所沢市三ヶ島にある稲荷神社です。三ヶ島稲荷神社の創祀年代は不詳ながら、新井家の祖先が宝玉院の南隣に祀っていたものを、宝永6年(1710年)宝玉院境内へ移して当地の鎮守としたといい、安永4年(1775)伏見稲荷大社の分霊を勧請したといいます。明治維新の神仏分離に伴い、明治8年に旧地葛籠入六二〇(早稲田大学校地内)へ遷座、昭和25年、元湯殿社のあった地(旧照明院境内、南打出八八五番地)の隣接地である当地へ遷座したといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲之御魂神 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽神社 |
祭日 | - |
住所 | 所沢市三ヶ島3-885-1 |
備考 | - |
三ヶ島稲荷神社の由緒
三ヶ島稲荷神社の創祀年代は不詳ながら、新井家の祖先が宝玉院の南隣に祀っていたものを、宝永6年(1710年)宝玉院境内へ移して当地の鎮守としたといい、安永4年(1775)伏見稲荷大社の分霊を勧請したといいます。明治維新の神仏分離に伴い、明治8年に旧地葛籠入六二〇(早稲田大学校地内)へ遷座、昭和25年、元湯殿社のあった地(旧照明院境内、南打出八八五番地)の隣接地である当地へ遷座したといいます。なお、湯殿社は照明院境内にあったといい、照明院は大日堂と通称されていたといいます。
新編武蔵風土記稿による三ヶ島稲荷神社の由緒
(三ヶ島村附新田)
記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による三ヶ島稲荷神社の由緒
稲荷神社<所沢市三ヶ島三-八五五-一(三ヶ島字葛籠入)>
当社の創建年代は不明であるが、社記に往古村内の宝玉院境内に祀っていたことを載せており、一方、口碑に「昔、個人の屋敷で祀っていたものを、宝永六年字北打出の宝玉院境内に移して村の鎮守とした」とある。宝玉院は東鳩山と号していたが、後に稲荷山と改称したことから当社との関係がうかがえる。
安永六年、伏見稲荷大社から正一位稲荷大明神の分霊を受けている。
明治二年、神仏分離により宝玉院境内を区画分離したが、神社の所管をめぐり同院と氏子との間に訴訟が起こり、同八年に旧来の除地であった字葛籠入六二〇番地の芝地に移転した。遷座後、数多くの氏子の信仰を集めてきたものの、氏子区域の最西端で、起伏の激しい土地であったため、交通の便が悪く種々の支障があった。よって、昭和二五年、守谷登三郎の篤志により南打出八八五番地の元湯殿社のあった地(旧照明院境内)に隣接する山林五〇〇坪が境内地として寄進されたのを機に、翌二六年に遷宮を行った。これにより当社は氏子区域のほぼ中央に鎮座となり、信仰は以前にも増して盛んとなった。
境内末社に御嶽神社がある。この社は昭和二六年に同字内から移転したものである。
明治期からの祀職は古尾谷城主中築後守資信を遠祖とする中家が務め、現在、義智が継いでいる。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による三ヶ島稲荷神社の由緒
当神社は、三ヶ島五丁目新井家の遠い祖先が宝玉院の南隣に当家の守護神として祀ったものと伝えられている。
その後宝永六年(一七一〇年)に宝玉院に納められこの頃より当地域の鎮守として信仰されるようになった。
明治八年(一八七五年)
神仏分離令により宝玉院隣地から現早稲田大学校地内(旧葛籠入六二〇)に移転遷宮をした。
大正十一年(一九二二年)
覆殿の屋根を改装、拝殿の新築、鳥居の建立をした。
昭和二十六年(一九五一年)
守谷家より元山林が奉納され現在地に移転遷宮をした。
昭和六十一年(一九八六年)
大学誘致に伴い元屋敷を譲渡し社殿の新築と、湯殿神社の跡地を譲り受け境内の拡張整備をした。
昭和六十二年(一九八七年)
京都伏見稲荷大社より御神木杉苗拝受、植樹をした。
平成十五年(二〇〇三年)
遷宮五十周年を記念して鳥居建立と幟幡竿の改修をした。(境内掲示より)
三ヶ島稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)