所澤神明社。日本武尊東征の際に創建、旧所沢村鎮守
所澤神明社の概要
所澤神明社は、所沢市宮本町にある神明社です。所澤神明社は、日本武尊による東夷征伐の際に、天照大御神様を祀ったのを創始とするといいます。旧くより所沢村の鎮守だといい、明治5年村社に列格、明治22年字宮前の阿夫利神社、その境内社の雷電社・五龍神社を合祀、明治40年に字下町の稲荷社、字上仲町の稲荷社、字蒲町の琴平神社を合祀しています。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 天照大御神、倉稲魂之命、大物主之命 |
相殿 | - |
境内社 | 蔵殿神社、八雲神社、瘡守稲荷社、戸隠神社・疱瘡神社・天神社・大国主神社・水天宮、招魂社 |
祭日 | - |
住所 | 所沢市宮本町1-2-4 |
備考 | - |
所澤神明社の由緒
所澤神明社は、日本武尊による東夷征伐の際に、天照大御神様を祀ったのを創始とするといいます。旧くより所沢村の鎮守だといい、明治5年村社に列格、明治22年字宮前の阿夫利神社、その境内社の雷電社・五龍神社を合祀、明治40年に字下町の稲荷社、字上仲町の稲荷社、字蒲町の琴平神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による所澤神明社の由緒
(所澤村)神明社
村の鎮守なり、花光院の持、社地の入口に蔵殿社あり。
華光院
護國山と號す、同宗(新義真言宗)、多磨郡青梅村金剛寺末、開山等の年代詳ならず。
金毘羅社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による所澤神明社の由緒
神明社<所沢市宮本町一-二-六(所沢字宮之前)>
当社の創建は社記に「口碑に往古日本武尊東夷征伐として東国に渡り給いし時、当郷小手指原(往時当社所有地)に陣せられるに及んで当所に御休息ありし時、当国永遠の平安を祈られて皇祖天照大御神を祀られ給う。後に土地の人々これをかしこしとして社を祀ると世々言伝う。しかれども古記類当社別当たりし真言宗花光院(明治二年廃す)文政九丙戊年二月十三日社殿と共に火災に罹り鳥有に属せり。」と伝えている。
『風土記稿』に「村の鎮守なり」とあるように、古来所沢村の鎮守であったため、明治五年に村社となり、同二二年には字宮前の阿夫利神社、同境内社の雷電社・五龍神社、更に同四〇年には字下町の稲荷社、字上仲町の稲荷社、字蒲町の琴平神社を合祀した。
古い末社に崇神天皇を祀る蔵殿神社と字蒲町薬王寺に宝暦年中悪疫が流行した時に祀り、その後当社の末社となった旧牛頭天王の八雲神社がある。また、瘡守稲荷社は、寛政九年当町小沢利八が瘡に悩み神に祈って霊験があり、屋敷内に勧請し、後に崇敬が高まり、当社域内に移したとの伝えがある。ほかに戸隠神社・疱瘡神社・天神社・大国主神社・水天宮が末社としてあり、更に招魂社が祀られている。
祀職は、別当花光院住職が明治二年に復飾し三芳静と号して祀職となり、以降現在四代目義臣まで宮司を務めている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による所澤神明社の由緒
当社は、大和武命が東夷征伐(紀元七七〇年-西暦一一〇年)の折り、此の地に立寄り、天照大御神様をお祀りし、勝利を祈願し、そして見事平定を成就されました。このご霊験灼かな大神様を、地の人達が引続きお祀りするようになったものです。(境内掲示より)
境内社鳥船神社について
境内社の鳥船神社は、所澤航空神社とも称し、所沢航空場で徳川好敏大尉が初飛行を成し遂げたことを記念して、初飛行の明治44年から100年後の平成23年に創建したといいます。
鳥船神社(所澤航空神社)
鳥之石楠船神
御祭神の鳥之石楠船神は、伊邪那岐命・伊邪那美命の御子神で、別名を天鳥船神と申し上げます。高天原と豊葦原中国(日本)との間の天空を鳥のように通う丈夫な船に坐し、大国主神の國譲りに際して建御雷神に副えて遣わされ、また、天孫降臨に先立つ邇芸速日命の天降りの際にも御乗船になったと伝えられています。
このような御事蹟により、近代以降には航空の神としても崇敬されています。
当社は、この所沢の地に我が国初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉による初飛行という快挙が成し遂げられた明治四十四年から百年を迎えたのを記念して、平成二十三年十月に創建されました。
我が国航空発祥の地に鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。(境内掲示より)
所澤神明社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)