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藥王寺。所沢市有楽町にある曹洞宗寺院、新田義宗終焉の地

藥王寺の概要

曹洞宗寺院の藥王寺は、東光山自性院と号します。藥王寺は、新田武蔵守義宗が当地に潜み隠れていたもののその後草庵となしたと伝えられます。孝山俊和(慶長19年1614年寂)が臨済宗より曹洞宗に改めたといいます。

藥王寺
藥王寺の概要
山号 東光山
院号 自性院
寺号 藥王寺
住所 所沢市有楽町8-18
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



藥王寺の縁起

藥王寺は、新田武蔵守義宗が当地に潜み隠れていたもののその後草庵となしたと伝えられます。孝山俊和(慶長19年1614年寂)が臨済宗より曹洞宗に改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による藥王寺の縁起

(所澤村)薬王寺
東光山自性院と號す、當寺始は臨済宗なりしが、孝山俊和住職の時より改めて洞家となり、郡中久米村永源寺の末に属す、俊和は慶長十九年七月二十五日寂せしと云、相傳ふ當寺の開闢は南北戦争の頃にて其来由を詳にせず、新田武蔵守義宗の開基とも云、土人の話にのこりしは、南方の武将新田武蔵守義宗しばしば将軍方の軍勢と挑み戦しが、其勢力盡て跡を當所に隠し、薙染して此草庵にて逝せりと、此説信じがたし、外に證すべきものなし、ことに義宗が終焉の地は他國にも其つたへありといへり、此寺近きころ回禄の災にあひて、未だ再建におよばず。
寺寳。
冑立臺座。相傳ふ是新田武蔵守義宗が所持のものなりと、其圖左の如し、径七寸、高三寸二分、上面は白木にて圖の如く朱塗にて文字をかきたれど、剥落して讀べからざる所多し中央の孔は径一寸六分、裏迄同大さに貫けり、是冑を冠らしむる柱受の所なるべし、廻りはすべて朱塗なり、義宗が遺物なりと云ことも、語り傳へのみにして、させる證あるにも非ず、されど古質にして由緒ありげにみゆ、此餘乗鞍などもありしが、回禄に逢ひて烏有となりしといへり。
薬師堂跡。本堂と同時に回禄にあひ、烏有となれり、此堂に安ぜし薬師は坐像にして、長五尺許腹籠の像あり、これは行基の作なりと云、秘佛なりとて容易に見ることを許さず、思ふに是古の本尊にて、寺號も此像によりて名づけしなるべし。(新編武蔵風土記稿より)

所沢市教育委員会掲示による藥王寺の縁起

東光山自性院と号して、本尊は薬師如来の木像で、身丈け五十五センチメートルある。寺の縁起によると、新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて、軍勢を群馬県に引き返させ、それから「義宗は北国に落ちて行った」と云いふらせ、自分は密かに所沢に隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり、遂に南北朝も統一され、戦乱も収ったとの話が伝わって来た。そこで義宗は髪を落とし衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改めた。そして一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ、戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、遂に応永二十年(一四一三)この地で亡くなった。
本尊は昭和三十七年解体修理の際、永禄十年(一五六七)修理の墨書体内銘があった。境内には、明治三十年に義宗の子孫が建てた「新田義宗終焉之地」の碑や、江戸時代の女流俳人三上里恵の句碑などがある。(所沢市教育委員会掲示より)


藥王寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿