牛沼神明神社。江戸時代末期に所沢神明社から分社
牛沼神明神社の概要
牛沼神明神社は、所沢市牛沼にある神明神社です。牛沼神明神社の所在する牛沼は、享保9年(1724)に分村して天保(1830-1844)郷帳に牛沼新田として記載されているといい、江戸時代末期に親村の所沢神明社から分社して創建、明治41年に字稲荷山の下原稲荷神社を合祀しています。
社号 | 神明神社 |
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祭神 | 天照大御神 |
相殿 | - |
境内社 | 天王社、下原稲荷社、愛宕社 |
祭日 | - |
住所 | 所沢市牛沼410 |
備考 | - |
牛沼神明神社の由緒
牛沼神明神社の所在する牛沼は、享保9年(1724)に分村して天保(1830-1844)郷帳に牛沼新田として記載されているといい、江戸時代末期に親村の所沢神明社から分社して創建、明治41年に字稲荷山の下原稲荷神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による牛沼神明神社の由緒
(所沢村)
記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による牛沼神明神社の由緒
神明神社<所沢市牛沼四一〇(牛沼字宮附)>
当社のある牛沼は、『風土記稿』にその記載がないため、幕末に一村をなしたものと思われ、近世では開発の遅かった地区である。なお、もとは所沢村に属していた。
口碑によると、神明様の御神体として祀られている石棒は、村が出来て、その鎮守様を祀るに当たり、親村の所沢村(現所沢市宮本町一丁目)の神明社から分社した時に持ってきた物であるという。ちなみに、宮本町の神明社は、日本武尊東夷征伐の折、小手指原に休まれ、天照大御神を祀って平安を祈られたのが創始と伝える社である。
なお、この口碑に出てくる石棒は現存し、「直径八寸総丈六尺位中程にて折れる」と社記にあり、大きなものである。
昭和四三年ごろまで、境内に目通り三メートルほどの杉があり、神木とされていた。この杉は枯死して伐採されたが、幹の中に数多くの祈り釘と思われる釘が入っていたという。これから考えると、現在の社の創立以前にもこの地に神社が祀られていたものであろうか。
境内末社は、八坂神社・愛宕神社・下原稲荷神社の三社であり、下原稲荷神社は、明治四一年に字稲荷山から合祀したものである。この下原稲荷神社の跡地は当社の所有となったが、社会のために役立てたいとの宮司及び氏子の願いにより、市の老人センターが建設され、地域住民に感謝されている。(「埼玉の神社」より)
所沢市観光協会掲示による牛沼神明神社の由緒
石棒が御神体といわれる神明様
この牛沼の地は、むかしは「うしのぬま」とか「漆ノ間村」と呼ばれたとの記録がありますが、もとは所沢村の内で享保九年(一七二四)に分村して、所沢村枝郷牛沼分と称したといわれ、天保郷帳には牛沼新田と記されています。
当社は口碑によると、親村の所沢神明社(現所沢市宮本町鎮座)より分社したものといわれ、御神体として祀られている石棒は、分村し鎮守様を祀るにあたり、御本社よりもってきたものと伝えられています。古記録には「直径八寸総丈六尺位中程にて折れる」と記され、現在も御神体として、本殿内に納められています。しかし、神社の創立の時期を示す古文書はありません。
御祭神は天照大御神です。
例祭は四月十六日で、巫女舞「浦安の舞」の奉納や新入学児童の入学報告祭も併せて行われます。
かつて三月三日は「神明様のご縁日」と呼んで氏子の人々が赤飯を重箱につめ本社や末社に供えて、参詣する習慣があり、この日に祈年祭も行われます。
十一月二十三日には、新嘗祭が、また、一月元旦は歳旦祭(初祈祷)が行われます。
その他には末社のお祭りとして、下原稲荷神社の二月の初午祭、七月十四・十五日の天王様(八坂神社)の夏祭り、九月下旬には秋葉神社の火災除けのお祭りなどがあります。
三月十五日は雹祭りといって、従来は年ごと各家々を持回りで宿を務め室内に祭壇を設け、榛名神社や数多くの神号の掛軸をかけてお祭りし、人々が集り酒食を共にする「お日待」の行事が行われましたが、今では神社敷地の生活改善センターを会場に引き続き行われています。(所沢市観光協会掲示より)
牛沼神明神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)