長久寺。玖阿弥陀仏開基、所沢七福神の大黒天
長久寺の概要
時宗寺院の長久寺は、花向山常行院と号します。長久寺は、玖阿弥陀仏が鎌倉幕府滅亡前後に開山したといいます。玖阿弥陀仏は、鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原で戦死した新田方の武将の供養塔を八国山に建立した他、徳蔵寺にも碑が残されているといいます。所沢七福神(八国山・荒幡コース)の大黒天です。
山号 | 花向山 |
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院号 | 常行院 |
寺号 | 長久寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 所沢市久米411 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長久寺の縁起
長久寺は、玖阿弥陀仏が鎌倉幕府滅亡前後に開山したといいます。玖阿弥陀仏は、鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原で戦死した新田方の武将の供養塔を八国山に建立した他、徳蔵寺にも碑が残されているといいます。
新編武蔵風土記稿による長久寺の縁起
(久米村)長久寺
花向山と號す、時宗にて相州藤沢清浄光寺の末寺なり、開山常州阿彌陀佛慶長年中寂すと云、土人の口碑に此寺はいと古き起立にて、今多磨郡野口村徳蔵寺の境内に立る元弘年中の口碑も、そのかみ此寺の僧に請て造りしと云、されば一寺となりしは州阿彌の頃にて、それより先は庵室などにてやありけん、本尊は信濃の善光寺の彌陀を移せし日本四十八體の一なりと云、去れど其作者は傳へず。(新編武蔵風土記稿より)
長久寺所蔵の文化財
- 廻国供養塔(所沢市指定文化財)
- 金銅造阿弥陀三尊立像(所沢市指定文化財)
- 旗本中根氏の墓(所沢市指定文化財)
廻国供養塔
この塔の建立者である平塚宗順常陽は江戸時代中頃、江戸へ出て小児婦人科医を開業し、後に日本廻国行者となりました。当時は観音巡礼や四国遍路にならって日本国中の社寺を廻ることが流行していたようで、常陽も国中の神社仏閣を参詣し、その記念として安永三年(一七七四)にこの供養楼を建てたのです。
この塔には、四面すべてに文字が刻まれています。特に左側側面には「やくしのうた」と題して、「唯たのめむびょう(無病)そく才(息災)福々と 寿命てきふう(長久)諸ぐわん(願)成就」とあり、さらに平塚夫妻の和歌が次のように記されています。
今むまれて死ぬことの世の中にながきと人の思うもの哉 源常陽
朝の間に心とめてしあさかほの見せばや人に夕ふくれのそら 妻とみ
なお、塔身の上の薬師如来像は、塔の建立後新しく置かれたものです。(所沢市教育委員会掲示より)
金銅造阿弥陀三尊立像
長久寺の本尊として長い間伝わり、通常は公開せず秘仏として厨子の中にお祀りされています。
長久寺の開山は玖阿弥陀仏(くあみだぶつ)で、新田義貞の鎌倉幕府倒幕の際、元弘三年(一三三三)五月に府中分倍河原で戦死した新田方の武将の供養塔を八国山に建立した人で、この三尊は当時から伝来したものと思われます。
三尊の高さは、中尊が約一九センチメートル、両脇侍が約一一および一二センチメートルです。像の身部に金色の残容が見られるので、もとは銅造鍍金の金銅仏であったことがうかがわれます。(所沢市教育委員会掲示より)
旗本中根氏の墓
「旗本中根氏の墓」は、長久寺本堂の裏手にあり、中根正重の二百回忌にあたる寛政九年(一七九七年)九月四日に、子孫の中根正寧が再建したものです。また、正重の四百回忌にあたる平成九年(一九九九年)には、長久寺護持会一同によって四百回忌法要が行われ、墓石覆屋と記念碑の建立及び墓域の整備がなされました。
大名旗本諸家の家譜を記した「寛政重修諸家譜」によると、正重は慶長三年(一五九八年)九月四日に伏見において死没し、久米村の長久寺に葬られました。正重の子の中根正成以降、代々の葬地は、江戸深川の法禅寺(註:現神田寺)に移りますが、長久寺には、後代の中根氏とその奥方や息女などの位牌が納められています。また、中根氏は本堂の修復や屋根替えなどに際しても費用を寄進しており、長久寺の維持発展に大きな功績を残しています。
中根正重は、はじめ徳川家康の長男信康に仕えていましたが、信康の死後、家康に仕えて関東入国に供奉し、天正十九年(一五九一年)五月三日、久米村に二百石の知行地を与えられました。以後、天和二年(一六八二年)四月二十一日、中根正延の時に知行六千石となり、上級旗本として相応の職に就いた中根氏の久米二百石知行は幕末まで続きます。
「旗本中根氏の墓」は、江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な資料です。(所沢市教育委員会掲示より)
長久寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿