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清照寺。所沢市上山口にある真言宗豊山派寺院、旗本久松氏の墓

清照寺の概要

真言宗豊山派寺院の清照寺は、星見山無量壽院と号します。清照寺は、村山党の末裔といわれる里見小太郎が星見堂と号して室町期に創建、僧賢譽(明暦2年1656年寂)の代に、当地の領主だった旗本久松忠次が、東谷にあった安楽寺を引寺して清照寺と改め、以後久松氏の菩提寺となったといいます。奥多摩新四国霊場八十八ヶ所42番です。

清照寺
清照寺の概要
山号 星見山
院号 無量壽院
寺号 清照寺
住所 所沢市上山口439
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



清照寺の縁起

清照寺は、村山党の末裔といわれる里見小太郎が星見堂と号して室町期に創建、僧賢譽(明暦2年1656年寂)の代に、当地の領主だった旗本久松忠次が、東谷にあった安楽寺を引寺して清照寺と改め、以後久松氏の菩提寺となったといいます。

新編武蔵風土記稿による清照寺の縁起

(堀口村天神社別當)清照寺
社地より東の方二丁許にあり、新義真言宗、中藤村真福寺末、星見山無量壽院天神坊と號す、當寺起立の来由を尋るに、昔鎌倉よりの落人星見小太郎と云者、是に来りて隠れ住けり、此人行基菩薩の作りし彌陀の像を所持せり、幾程なく剃髪染衣の身となり、菴室を此に結びて星見堂と稱し、終焉の地となせり。僧賢譽村内安楽寺と云蘭若の衰微せしを、ここに引寺して清照寺と改號すと云、この僧は明暦二年五月十一日寂せり、本尊大日を安ぜり。
星見堂。是星見小太郎入道が結びし菴室にて、そのかみ守護佛とせし彌陀の像を安置せしが、後故有て失ひしかば、今は別に彌陀の像を造り安ず。(新編武蔵風土記稿より)


清照寺所蔵の文化財

  • 旗本久松氏の墓(所沢市指定文化財)

旗本久松氏の墓

「旗本久松氏の墓」は、清照寺本堂の裏手、歴代住職の墓域内にあり、向かって左側が久松定佳、右側が定佳の二男定弘の墓石で、二基が並んで建っています。定弘の墓は、墓石の刻銘から定弘の養子となった定持(妻は定弘の娘)が建てたものと判ります。
久松氏が、武蔵国入間郡山口に二百石の知行を与えられたのは、天正十九年(一五九一年)、定佳の父忠次の時です。定佳は、慶長五年(一六〇〇年)から徳川家康に仕え、元和二年(一六一六年)、武蔵国比企郡に三百石を賜り、父の采地と合わせ五百石を知行します。
大名旗本諸家の家譜を記した「寛政重修諸家譜」によると、久松定佳は万治二年(一六五九年)十一月十日に死没、定弘は貞享四年(一六八七年)十月二日に死没し、両人とも入間郡堀口村の清照寺へ葬られました。なお、定佳の長子の定延も父と同じ葬地に葬られたと記されていますが、現在、定延の墓石の存在は不明です。
寺伝によると、清照寺は武蔵七党の一つ村山党の末裔といわれる里見小太郎が室町期に建てた持仏堂(星見堂)に始まり、後にこの地を知行した久松忠次が、東谷にあった安楽寺を勧請して菩提寺としました。もとは旧山口村堀口の地にありましたが、山口貯水池(狭山湖)の建設に伴い、昭和五年に現在地へ移転しています。
「旗本久松氏の墓」は、江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な資料です。(所沢市教育委員会掲示より)

清照寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿