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新光寺。所沢市宮本町にある真言宗豊山派寺院、所沢観音

新光寺の概要

真言宗豊山派寺院の新光寺は、遊石山観音院と号します。新光寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられ、源頼朝が建久4年(1193)那須野へ向かう途中に田地を寄進したといいます。新田義貞も改めて田地を寄進、室町時代に記載された廻國雑記にも観音寺と記載があるといい、江戸幕府より観音堂領として寺領6石の御朱印状を拝領していたといいます。武蔵野三十三観音霊場10番、狭山三十三観音霊場8番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所24番です。

新光寺
新光寺の概要
山号 遊石山
院号 観音院
寺号 新光寺
住所 所沢市宮本町1-7-3
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



新光寺の縁起

新光寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられ、源頼朝が建久4年(1193)那須野へ向かう途中に田地を寄進したといいます。新田義貞も改めて田地を寄進、室町時代に記載された廻國雑記にも観音寺と記載があるといい、江戸幕府より観音堂領として寺領6石の御朱印状を拝領していたといいます。

新編武蔵風土記稿による新光寺の縁起

(上新井村)観音院
新義真言宗、遊石山新光寺と號す、慶安二年先規に任せ寺領六石の御朱印を玉はる、當院の来由を尋るに昔右大将頼朝奈須野狩にうつ立たまひし時、此邊を経歴せられ此所にて書の餉せり、其假の小屋を其儘建つき、田地を寄附して観音を安置せしが、其後戦争の場となり寄田を掠略せられしを、元弘建武の亂に新田左中将義貞この寺に至り、再び寺田を寄附せり、【廻國雑記】を閲るに所澤といふ所に至り、福泉といへる山伏観音にて、ささゆをとり出しけるに、薯蕷と云へるものさかなにありけるをとりて、俳諧體の歌あり、観音寺と云は此寺のことなるべし、されば文明の頃は早く一寺にて有しと見ゆ、然るに其後中絶し、數十年を経て中興せし時の開山を賢能と云
寺寳、鞍一掛。僧て黒塗なり、前後の輪に紋ありしが剥落して跡のみ存せり、寺傳には新田義貞が乗鞍なりといへり。
観音堂
石地蔵堂。権大僧都宥圓が追福の為、正保三年立しものなり。(新編武蔵風土記稿より)

所沢観音

寺伝によれば遊石山観音院と号し、本尊の聖観世音菩薩は、行基菩薩の作と伝え、慶安二年(一六四九)に観音堂領として、幕府から六石の朱印が出されている。寛政二年(一七九〇)の寺社書上には「三間四面のお堂」と記録され、華堂に観音像を安置したのが当寺の始まりで、所沢地方の人々に信仰されて来ている。
また旧鎌倉街道の傍にあって、「新編武蔵風土記稿」や「吾妻鏡」「江戸名所図絵」などの地誌に、建久四年(一一九三)源頼朝が那須野へ鷹狩に行く途中、ここで昼食をとった折、その時の幕舎の地を寄進したといわれる。その後この辺が戦場となり、元弘三年(一三三三)新田義貞が鎌倉攻の途上、必勝を祈願し、北条氏を平げての帰途再び立ちより前にかすめ取られた土地を寄進したと伝えられている。
文明十八年(一四八六)聖護院門跡の道興准后が書いた「廻国雑記」に野老沢(ところざわ)という所へ行った時に、観音院に福泉という山伏がいて、竹筒を取り出したるところ、酒の肴に薯蕷(とろろ)というものを出したので、(野遊のさかなに山のいもそいて、ほりもとめたる野老沢かな)と歌をよんでいることが記されている。(境内掲示より)


新光寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿