猫の足あとによる埼玉県寺社案内

多聞院。所沢市中富にある真言宗豊山派寺院

多聞院の概要

真言宗豊山派寺院の多聞院は、宝塔山吉祥寺と号します。多聞院は、元禄7年(1694)に川越藩主となった柳沢吉保が武蔵野の開発に着手、元禄9年(1696)に開発した三富新田(上富・中富・下富)の祈願所として毘沙門天社(別当寺多聞院)を建立しました。明治維新後の神仏分離により毘沙門天社を毘沙門堂と改めています。当寺の毘沙門天は、武田信玄の守り本尊と伝えられ、12年に一度の虎歳には本尊の毘沙門天が開帳されます。奥多摩新四国霊場八十八ヶ所36番です。

多聞院
多聞院の概要
山号 宝塔山
院号 多聞院
寺号 吉祥寺
住所 所沢市中富1501
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



多聞院の縁起

多聞院は、元禄7年(1694)に川越藩主となった柳沢吉保が武蔵野の開発に着手、元禄9年(1696)に開発した三富新田(上富・中富・下富)の祈願所として毘沙門天社(別当寺多聞院)を建立、別当寺として愛染院第四世榮任を招聘して多聞院を創建しました。明治維新後の神仏分離により毘沙門天社を毘沙門堂と改めています。当寺の毘沙門天は、武田信玄の守り本尊と伝えられ、12年に一度の虎歳には本尊の毘沙門天が開帳されます。

境内掲示による多聞院の縁起

三富の開拓と多聞院
江戸時代の元禄7年(1694)川越城主となった柳沢吉保は、武蔵野の開拓を計画、着手しました。吉保の命を受けた家臣の曽根権太夫らは、地蔵林(上富の木ノ宮地蔵付近)を中心に地割を進め、短冊型の耕地を均等に配分しました。こうして元禄9年に完成した新しい村の名は、吉保が中国の孔子の教えに基づいて、豊かな村になるよう願いを込めて「富」と名付けられ、上富・中富・下富の3か村に分かれた三富新田が誕生しました。
多聞院は、このときに村民のための祈願所として創建されました。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による多聞院の縁起

(中富村)
毘沙門天社
元禄九年の鎮座にして、上中下三村の鎮守なり、毘沙門は印子にて造れる一寸四分の立像にて、松平美濃守が守り本尊なりしと云。
別當
多聞院
寳塔山吉祥寺と號す、眞言宗新義、江戸四ッ谷愛染院の末、是も松平美濃守が草創にて、開山は本山第四世榮任元禄十二年九月二十九日示寂す、本尊大日を安ぜり。(新編武蔵風土記稿より)

「所沢市史社寺編」による多聞院の縁起

元禄九丙子年八月川越領主柳澤出羽守保明之ヲ創立シ、次テ江戸四ツ谷眞言宗愛染院第四世榮任ナル者ヲ聘シ開祖タラシム、爾後該寺末ナリシカ天保九戊戌年三月離末シテ同地大塚町護持院末トナリ、明治二己已年同院復飾シテ神官トナルニ際シ護國寺末ニ轉ス(「所沢市史社寺編」より)


多聞院所蔵の文化財

  • 多聞院毘沙門堂

多聞院毘沙門堂

「多聞院毘沙門堂」は、その棟札から明和三年(一七六六年)に落成したものと判ります。その後、屋根の葺き替えが何度か行われてきましたが、全体の傷みがひどくなったため、昭和五十七年(一九八二年)に大規模な修理が行われ、茅葺き屋根から銅板葺きに葺き替えられました。正面三間側面三間の三間堂で、正面一間に向拝を付し、背面三間に下屋庇を設けています。また、内部は内陣と外陣に分かれ、内陣は一部板張りの畳敷きで、正面奥に須弥壇を設け、その上に厨子を安置します。
ここ中富は、元禄年間に川越藩が行った三富新田の開拓地です。元禄七年(一六九四年)、川越藩主の柳沢吉保はこの地の新田開拓に着手し、上富・中富・下富の三村が誕生しました。吉保は、開拓農民の心の拠り所とするため、菩提寺として多福寺を、祈願所として毘沙門社(別当寺多聞院)の一寺一社を創建します。創建(元禄九年)当時の毘沙門社は、御宮・拝殿・別当寮・鳥居からなっていました。
寺伝によると、本尊の毘沙門天は武田信玄の守り本尊であり、信玄が戦陣に臨むときは、いつも兜の中にこの像を納めていたと伝わります。なお、毘沙門堂の前には一対の虎の石像が奉納されており、これは、毘沙門天の御使が虎であることに由来します。多聞院では、毎年五月一日に「寅まつり」が開催され、十二年に一度、虎歳の『寅まつり』には、本尊の毘沙門天が開帳されます。(境内掲示より)

多聞院の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「所沢市史社寺編」