佛蔵院勝楽寺。百済より帰化した儒生王仁の五代孫王辰爾が創建
佛蔵院の概要
真言宗豊山派寺院の佛蔵院は、辰爾山勝楽寺と号します。佛蔵院は、百済より帰化した儒生王仁の五代孫、王辰爾が子、其父の菩提の爲に勝楽寺村に創建、権大僧都尊海が延久3年(1071)に中興、寺中に十二坊を擁す大伽藍を誇っていたものの、文永年間(1264-1274)に被災し衰微してしまったといいます。山口貯水池造成に伴い、勝楽寺より当地へ移転したといいます。狭山三十三観音霊場2番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所73番です。
山号 | 辰爾山 |
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院号 | 佛蔵院 |
寺号 | 勝楽寺 |
住所 | 所沢市山口1119 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
佛蔵院の縁起
佛蔵院は、百済より帰化した儒生王仁の五代孫、王辰爾が子、其父の菩提の爲に勝楽寺村に創建、権大僧都尊海が延久3年(1071)に中興、寺中に十二坊を擁す大伽藍を誇っていたものの、文永年間(1264-1274)に被災し衰微してしまったといいます。山口貯水池造成に伴い、勝楽寺より当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による佛蔵院の縁起
(勝楽寺村)
薬師堂。是古へ東坊にありし薬師にて、腹籠の像は霊験あらたなる秘佛なりと、さればそのかみこの薬師堂免五反の地ありしに、後年山王領の内にこもれりと云。
阿彌陀堂。別當勝楽寺
辰爾山佛蔵院大坊と號す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺の末、本尊十一面観音を安ず、相傳ふ當寺は殊に古き寺院にて、往昔百済より帰化せし儒生王仁が五代の孫、王辰爾が子、其父の菩提の爲に開闢せし伽藍なりと云、又王辰爾此地にて終焉せしとも云、又其比のものなりとて午王の古版一枚ありしが、是は回禄の災などにかかりしや、いつの頃にか失ひてなし今僅に摺しもののみ近郷の農家などにままのこれり、其の圖上の如し、又後三條院の御宇延久三年中興開闢権大僧都尊海が時鋳し鐘ありしが、是も年歴て響止りしかば、明暦三年丁酉九月鋳改しとて境内にかく、されど古への鐘銘をもともにしるしをけりといへり、その銘左にのす。(銘文省略)
かかる古刹にして頗る大伽藍なりしかば、寺中も十二坊ありしに、それも文永の頃丙丁の災に逢ひ、諸堂はさらなり、諸記をも皆烏有となせしと云、しかりしよりことに衰廃し寺中も長くたえしかど、彼坊の名は今も田圃の小名に残れるをもて古のさまを思しるべし。(新編武蔵風土記稿より)
佛蔵院所蔵の文化財
- 石川文松筆曲水清遊図・蓮花図杉戸絵
佛蔵院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿